我国上代に於ける売春婦は采(うね)女(め)と云つた。雄略天皇の時代に現れ、其の後文武天皇の大宝令に采(うね)女(め)の制度を認めて居る。これは後の官妓の種類に属するものであらう。中山太郎著日本民俗誌及売笑三千年史(新小説売笑婦研究号)には「我が国には古く采(うね)女(め)の制度があつた。即ち国々の国司や、郡司の子女を宮中に仕へさせるのであるが、此の采女の起原は神に仕へるのが元の姿であつた宮中の雑用に使役されるのは新らしい姿なのである。而して此の多くの采(うね)女(め)は直言すれば神妾なのである、神々の寵幸を受くべきものである。」とあるが、「神といふ語は同じでもその内容は時代によつて異つてゐることを考へなければならぬ。」と同氏はこれ以上語ることを避けてゐる。此の神妾は軈て采(うね)女(め)の制度が亡んでからも、民間には伝統的に残つてゐた。延歴十七年十月の大政官符に、出雲の国造が、神主を兼ねてゐるので、「新任の日に多くの百姓の女子を娶り、号して神官の采(うね)女(め)となし、便(すなは)ち娶つて妾となす限極を知らす、これ神事に託して淫風月を煽くものである。若し妾を娶つて神事に仕へるのが止むを得ぬならば、国司に名を注させ一女に限る。筑前の宗(むな)像(かた)神主も之に准すべし」とあるのは這般の消息を如実に物語つてゐるものである。
天智天皇の時代に「遊(う)行(か)女(れ)婦(め)」又は佐(さ)夫(ぶ)流(る)児(こ)(戯女の義)と云ふものがあつた。万葉集には奈良朝時代に史(ふみ)生(ひと)小(や)昨(たい)なるもの「佐(さ)夫(ぶ)流(る)児(こ)」の色香に迷つて、之に惑溺し遂には其の妻子を棄てゝ佐夫流児と同棲するに至つたのを、大伴の家持が●じて詠んだ歌に次の如きものがある。
里(さと)人(びと)の見(み)る目(め)恥(はづか)し佐夫流子(こ)に 惑(まど)はす君(きみ)が宮(みや)出(で)後(しり)姿(ふり)
これは後世の遊女となるのである。宇多天皇は遊女「白」を愛寵せられて、これに御禰襠を一重と、袴を賜ふたといふことである。彼等は最初に上流の間に交り気品も高く遊芸にも達し和歌を能くし時としては漢詩を賦するものすらあつたのである。
(註)大鏡巻八(国史大系本)に享子院(宇多帝)の河尻におはしまししに、白女と云ふ遊女召して御覧じなどせさせ給ひて、遥かに遠く候よし歌につかうまつれと仰せ事ありければ詠みて奉りし「浜千鳥飛び行く限りありければ雲たつ山をあわとこそ見れ」いといみじう愛でさせ給ひて物かづけさせ給ひき。「命だに心にかなふものならばなにかわかれの悲しかるべき」この白女が歌なり。又鳥飼の院におはしましたる例の遊女どもあまた参りたる中に、大江玉淵が娘のこよなく容おかしげなれば、あわれからせ給ひて上に召しあげて、玉淵はいと労ありて歌などよく詠みき、此の鳥飼ひといふ題を人々詠むに同じ心につかうまつりたらば、誠の玉淵が子とは思召さんと仰せ給ふ。承りて即ち、「深みどりかひある春に遇ふときは霞ならねど立ちのぼりけり」などでたかりて帝より始めて物かづけ給ふ云々
万葉集に天平勝宝三年正月三日介(すけ)内(のう)蔵(ちく)忌(らい)寸(みの)縄(なわ)麻(ま)呂(ろ)が、其の邸で新年の宴を催うしたとき、客なる掾久禾朝臣、広繩雪積の岩を覆ひ、池を没して草樹の装を彩りたる光景を眺めて、
瞿(なで)麦(しこ)は秋咲くものを君が家の 雪のいはほに咲けりけるかも
と詠ぜるに応じて遊女蒲生(がもう)娘子(いらつめ)の
雪の島いはほにたてる瞿麦は 千代に咲かぬか君が挿頭(かざし)に
と、報ひたるが如き、蓋し其の才智流るゝが如きを知るべきである。此の外にも古今集、続古今集、新続古今集、勅選
古今集、拾遺集及後拾遺集等には遊女にして、王侯貴人の前に読みたりといふ歌が数限りなく載せられてゐる。彼等は歌人としても一流に列せられるべきであらう。
如斯、遊行女は貴顕縉紳に交り、王朝三百八十年の平和に伍して、詩歌、管絃の巷に、奈良平安の文化を彩る交際社会の華であつたが、此の風は下庶民に及び、舟船の便多き地には之等の娼婦の盛んに笑を売り淫を鬻ぐものがあつた。
大江匡房の「遊女記」に
山城の国、与(よ)渡(ざ)の津より巨川に浮びて西行すること一日之を河陽と請ふ、山陽、西海、南海、の三道に往復する者此の路に拠らざるはなし、江河の南北、村邑処々流れを分ちて河内の国に向ふ、之を江口(現在の西城郡中島村字江口)と云ふ蓋し典薬寮の味(あじ)原(はら)の厨(かはや)掃部寮(かもんりょう)の大庭の荘なり。
摂津の国に到れば神崎蟹島(現在の西城郡歌島村字加島)等の地にありて、比門連戸人家絶ゆるなく、娼女群を為し扁舟に掉して旅舶に着き、もつて枕(ちん)席(せき)を薦(すし)む、声は凌雲を遏め、韻は水風に漂ふて、経過の人家を忘れざるなし、洲廬浪花、釣翁高客、軸艫相連りて殆んど無きが如し、蓋し天下第一の楽地なり」とて、当時の港辺に於ける売笑の風盛なるを述べてゐる。
尚同書に拠れば此等各地方に於ける遊行女の階級多く、江口は則ち観音(遊行女)を祖(第一流の意)となし、中君、小馬、白女、主(しゅ)殿(でん)(以上遊女)等之に次ぐ、蟹島は則ち宮木(みつぎ)(遊女の名)を宗となし、如意、香爐(こうろ)、孔雀、三枚、(遊女の名)等之に次ぐ神崎は則ち、河菰(かこ)姫(遊行女の名)を長者と為す。姑蘇(こそ)、宮子、刀命、小児(同上)等の属、みな是れ倶尸羅(くしら)(仏教中妖婦の意)の再誕、交通姫の後身なり。とあるを見れば、当時淫売の風夙にあり、遊行女にも階級の多くあつたと云ふ事がわかるであらう。
自二山城国興津一浮二巨川一西行一日、請二之河陽一。往二返於山陽南海西海三道一之者莫レ不レ遵二此路一。江河南北、村邑処々、分流向二河内国一請二之江口一。云々。到二摂津国一有二神崎、蟹島等地一。比門連戸、人家無レ絶、娼女成レ群、棹二扁舟一着二旅舶一以薦二枕席一、声遏二渓雲一、韻応二水風一、径廻之人、莫レ不レ忘レ家。云々、江口則観音為レ祖、中君、小馬、白女、主殿。蟹島則宮木為レ宗。如意、香爐、孔雀、三枚。神崎則河菰姫長者、姑蘇、宮子、刀命、小児之属、背是倶尸羅之再誕、交通姫後身也、云々。
如斯、実に奈良、平安朝時代は上下を通じ、文弱遊惰の風に染み、淫風一世を覆ひ、巷路色を売り、船中に淫を鬻く者満ち、淀川の記にも
其の俗天下女色を衒売する者、老少提結、呂里相壁み船を門前に維(つ)き、客を河中に遅(ま)つ少者(妓輩)は脂粉詞笑し以て人心を蕩し、老者は(妓の父母)笠を擔ぎ、卓を擁し、以て己が任となす。夫婿ある者は、責むるに其の淫奔の行ひ、少きを以てし、父母なるものは、唯だ願ふて、其の寵嬖の幸多きを以てす。
と当時に於ける淫売の風、推して知るべきである。
又旅から旅へ渡り歩く娼婦に「塊儡女(くらしめ)」と云ふものがあつた。彼等は酒席に歌を歌ひ、人形を廻し、淫を鬻(ひし)きたるもので ある。「傀儡遊女記」に
女は即ち愁眉啼粧、折腰歩鄒(ようせつぶすう)、嗤笑を為し、朱を施し、粉をつけ、喝楽淫楽もつて妖媚を求め父母夫婿之を誡しめず。
亟、行人旅客に邁ふと雖も、一宵の佳会を嫌はず、寵嬖の余り、自ら千金を献じ、縫服錦衣鈿晝具悉く之を有せざるなし。
と傀儡女は「傀儡子記」によれば 定居なく、常家なく、宮盧離帳水草を追ふて移遷する者の娘で、当時にありても卑賤なるものとされてゐた。
(註)中山太郎氏売笑三千年史(十五年九月号新小説売笑婦研究号)によれば、傀儡女の語源はくつつと称する蔓草をもつて編んだ籠を腰にした婦女といふ意味で、万葉集に、「鹽(しほ)かれの三津の海女のくつゝ持ち玉藻刈るらんいざ行て見ん」とあるは、当時にはまだ売笑の面影を見なかつたころで、それが詞花集には傀儡の歌として、『敢果なくも今朝の別れの惜しきかな、いつかは人と長らへて見む』と、情緒纏綿たるもので江匡の傀儡子記に「木人を舞はし、桃便を闘し、朱を施し扮を伝へ倡歌し、淫楽し以て妖媚を求め、行人旅客に逢へば一宵の佳会を嫌はず、夜は百神を祭りて福神を祈る。東国の美濃、三河、遠江等の党を豪貴となし、山陽の播磨、山陰の但馬等の党これに次ぎ、西海の党を下とす」
とあるは他の一般遊女と異るところはないが、たゞ彼等は形式に於て水草を趁ふて移り住むのと、木偶を舞すのとが異るだげであるといってゐるが、彼等は多く卑賤なる遊女として、江戸時代の辻君夜鷹と様を一にしてゐたと見る方が正しい、則ち彼等木偶を扱ったといふこと自体が国初時代の「祝言人(ほけいびと)」即ち乞食者の流れを汲んだことを証してゐる。
又、此の時代に販婦(ひきめ)といふ売笑婦があった。販婦は、商品を携へて市井村落を売り歩く婦女であったが、これも亦傀儡女と同じく淫を鬻いだ、則ち塵添盖嚢抄に、「高倉院の承安四年に天下旱魃し、澄憲僧都に雨乞の祈祷をさせ、雨大いに降る。後白河院澄憲の尼の子なることを思ひ出で、降雨にことよせ退出のときあまくだると囃させる、その時澄憲拍子をとって三百人々々と敷(くり)返(か)囃(へ)させて、公卿百人、伊勢平氏百人験者百人、皆(か)濫(ご)行(みな)、女后皆販婦と歌って舞ふ。」と、あるのを見ても夫れと首肯されるであらう。
販婦については、多くの文献を見ないから定かには解らぬが、此の時代或はこれ以前(奈良朝又はそれ以前かも知れぬが平安朝時代の文献にはこれを多く見る)に存在した娼婦に桂(かつら)女といふのがある、桂女の名については京都に近き桂の里にゐたので此の名を負ふに至つたものか、又は特種なる鬘卷をしてゐたので此の名が出たのか、我が国上代の娼婦に対し深い研免を積まれた中山氏も今は定かならずと云ってゐられる。たゞ桂女が代々女子相続を特色としてゐたこと、又これ等の、先祖が神功皇后の征韓に従軍して殊功あり、後には産婆と子おしろとを常業としてゐたといふことのみ伝へられてゐるが、大隅国に残る桂姫城の伝説によれば渡韓の際樹てた殊勲とは、陣中の徒然と旅愁を慰めたのであったとのことであろ。それが後に芸妓に似た業をなし淫を売ったものである。いづれにしても我が国売春婦の先駆をなしたものであることが偲ばれる。