奈良朝より平安朝へかけて著しく盛大を極めた我が国売淫の風は、さらに源平時代に至つて一層盛んになつた。此の時代に現れた娼婦は人も知る彼の白拍子である。
「白拍子」は鳥羽天皇の御宇に初まり、白き水干に長袴を穿ち、烏帽子を着け、太刀を佩ひて舞ふた為めこの名を負ふに至つたのであるが、清盛の寵愛した「祗王」「祗女」「仏御前」義経の愛妾「静(しず)」なども此の種の女であつた。而して「白拍子」は源平時代の後に廃絶し、其の後新しく現れたものが鎌倉時代の「遊君」「傾城」で、曾我兄弟の十郎祐成と相愛せし「大磯の虎」などが夫れである。
而して、白拍子の起源は保元平治時代の博識信西藤原通憲が、舞の手の中に興あるものを選び、妓女磯禅師に教へて之を舞はしめてから一種の舞曲となつて、之を演ずる者を白拍子と云ふやうになつたのである。
(註)高野辰之博士の研究によれば白拍子とは音声譜節の上から命ぜられた名であつて、白の水子を着て舞ふたからとの従来の説は迷説であるとのことである。
斯の如く、白拍子はもと都の妓女より起り、之を習ふ者多く次第に近江、志摩、摂津に弘まり遂に東国に及んで鎌倉山の星月夜。白拍子を擁して舞の手ぶりを賞するもの多くなり「静」はその一人で、源義経の愛妾として其の末路の悲惨であつただけに一層その名を後世に残したのである。特に此の時代に於て迷ぶべき事は平家の没落と其の落人の行く辺である。
人も知る如く、壇の浦の戦は平家一門最後の地として、此の一戦に破れたる落人、生き残りたる多くの官女、或は侍女等の今日は彼方の浜、明日は此方の浦にとさすらひて、初めは人の情に縋り辛くも露命を繋いだが遂には意を決して情を売り色を鬻ぐやうになつた。
次の一文は其の哀れを止めたる最後を知るには余りにも悲しきものである。
『生き残れる多くの上(じやう)臈(ろう)達が其の日の暮らしに困り憐れや貞操を売りて一時を凌ぐ浮勤め身を切らるゝ思して泣くヽ肌を汚す浅ましさも時世と諦むるより外ぞなき身の上こそ悲しけり、斯くて漁村の茅屋を仮屋の住居と定めて朝には漁郎を送り夕には村郎を迎へて夜毎に替る枕の敷々契りては何時ともなく馴れ合ひそむる男女の中に変りはなく艶の種も蒔かれけり。』
斯く官女や侍女達が漁夫野人を相手に色を売りたるものが、後に習慣となり上臈と云へば乃ち色を売るものの通語となり夫れが何時しか女郎となり、同時に彼等が苫屋の中を蓆にて仕切り、入口も亦蓆を張り客を迎へたものが、蓆張りは上臈の家の標章ともなったのであると云ふ。一つには我国売淫の濫膓として史家の挙げるのも亦論拠のなき事ではあるまい。