鎌倉時代

公娼制度の出来たのは鎌倉時代である、武人兵士の増加は平家の時代より初まつてゐるが、平氏は皇室を擁して藤原氏の如く万雅を好み、風流を愛し武骨は寧ろ斥けたが、鎌倉武士は多く礼(なら)に倣はぬ荒夷の寄り集りで、恋愛よりも性慾にそゝられたのである。故に遊女も多く、売淫の風も盛んになった。而して此の時代に至って長者、即ち楼主が現れて数多の遊女を抱へて盛んに営業をする様になった。之に対して遊女の官制が布かれ、税が課せらる様になった。即ち鎌倉の官制中に遊女別当が設けられ遊女の取締りをするやうになった。北条氏が其の政権を源家の手より奪ふて至り、平安朝以来の男女の敗倫淫猥の風を一掃せんとし之に関する刑律を設けた。

貞永式目に

一、姦通する者は和姦と強姦とに論なく其の所領を官没して出仕を罷め所領のあらざる者は之を配流す。

二、路上に姦するものは御家人は百日間の出仕停止を命じ郎従以下は片鬢剃りとなす。

三、名主百姓の密売は名主は科料十貫文百姓は五貫文女も同断なり。

斯く乱倫淫風を掃蕩した反面に遊女売淫の風は却って助長せられた。而して、遊女別当の制はその儘に踏襲された。

鎌倉時代に於て、遊女の最も殷盛をきわめた地は片瀬、腰越で鎌倉への街道往還の地であつただけ上り下りの武士商人工人の差別なくここに宿りて遊興にふけりたるものであらう。即ち当時長者と呼ばれる楼主(註第十節参照)は数多の遊女を抱へて、さながら君主の奴隷に対する如き権力を持って売淫をせしめたといふ事である。

而して人身売買の風の盛んに行はれたらしく、此の時代の物語りを伝へる本には容貌よき少女の悪漢に誘拐せられて遊女に売られたなどといふことが散見せられる。