室町時代

足利十五代将軍義晴の時に至って財政窮迫に堪えず傾城局を設けて遊女一人の年税十五貫文を課した。

(註)久我候爵家に伝はる大永八年六月二日付の古文書には竹内重信を洛中傾城局の公事に補任し公用と称し娼家より銭十五貫文を徴収した(中山太郎売笑三千年史)といふ。

「立君(りっくん)」「湯女(ゆな)」の出たのも此の頃である。而して之迄は散娼制度だったが、此の時代遊女を一ヶ所に集める集娼制度が出来た。天正十七年京都冷泉万里小路に新屋敷を作った。之が遊廓の始めで、これから江戸の吉原京都の島原、大阪の新町等の大遊廓出現を見るに至った。斯くして良き娼婦を売らんとて「人買」を市に村に走らせて、女を買ふ様になり、遂には「子飼」など云ふものが出来て、買取った子女を娼婦となずべく訓練したものである。

謡曲に取扱はれた婦女誘拐の哀れな物語りの数々、お伽草紙や奇異雑談集の記録などにはこれ等人買船の悪辣なる手段が数限りなく載せられてゐる。

此の時代は、実に我が国最暗黒時代と云はれるだけあって、戦乱夜に日を次ぎ国民は塗炭の苦しみをつゞけ政道行はれず、国法の光りも制裁の力も頼むに足らず、地方領主の経済的窮乏亦甚しく苛斂誅求これこととし、重租を農民に荷し、若し年貢未進の場合は人妻であらうが娘であらうが一向お構ひなしに人質として拉し去った。栃木県足利郡梁田辺に残るクドキ笳の一節にも(日照り一年水害二年前後三年不作がつゞき年貢未進で責め立てられて、娘売らうと相談きめて)などの俚謡は室町末期に作られたもので農民の生活を語ると共に当時の風習の一端を窺ひ知ることが出来やう。

(親は吾妻に子は不知火に桜花もや散りぢりに)といふごとき当時の社会の一面を如実に物語るものである。