豊臣時代

乱麻の如き戦国兵乱も漸く豊臣秀吉の武勲によって天下統一の偉業なり、人心鎮撫の政策としての遊女の制は復び蘇るに至った。即ち秀吉は四方に散在せる遊女を集めて一団とし、京都万里小路柳の馬場にこれを置いた。時将に天正十五年斯くて柳町の遊里は成ったのである。

慶長元年閠七月二十二日、彼の伏見の大地震は城楼石壁悉く之を崩壊し去り、城中の侍女圧死するもの夥しく、為に大閤は京阪並に伏見の遊女で容貌勝れたる者を召集めさせ、異国の使節の来る日其の盃酌給仕の役を務めさせるべく徳善院玄以に之を命じたといふ(参陽実録)。当時の遊女も亦品位高く、城中に貴人の相手をなしたことを知るべきである。

舞妓も此の時代より現れ、昔の「白拍子」のやうに高貴の門に出入したが、結城秀康を感泣せしめたといふ『お国』の如き名妓の出でたのも此の時代である。