吉原の開基

吉原由緒記忙よれば

天正十八年徳川氏入国以来小田原の商人一時に江戸に移り其の他諸国の商人又争ってこれに集りしかば江戸市は急激に繁栄に赴きたり。こゝに於て場末の地に売笑の輩の出没亦避くべからず。而も慶長年中までは未だ一定の傾城町と称すべきものなく娼楼所々に二三軒づゝ分散し僅かに糀(かうじ)町八丁目辺(京都六条より移転)鎌倉河岸(駿府弥勒(みろく)より移転)大橋(常盤内柳町にして皆江戸の者なり後慶長十年誓願寺前に移転)の三ヶ所に各十四五軒の群集せるものありしのみと当時、京都、伏見、奈良、大阪等には既に遊廓あり。江戸の繁栄に伴ひて彼等は次第に利を逐ひてこゝに来り慶長の初めには散娼制度ではあったが既に各地に之等淫を売る娼家があったことは叙上の一文にても之を知ることが出来るであらう。斯く江戸の繁昌を早くも観て取った彼等娼家は、附近の密娼屋と気脈を通じ其の中にも小田原の人で庄司甚右衛門は「遊女の諸方に散在するは風紀を害するのみならず取締の上にも不便少からざるべし」との意見を以て一定の公認遊廓設立のことを幾度も奉行に願ひ出でたが遂に許可されずに終った。然るに慶長五年関ヶ原の合戦に関東武士の陸続として江戸を立つを見た彼は茶の接待にことかりて容貌勝れたる遊女十数名を引き連れ、町外に茶店を出して之を饗応し親しく家康の目通りに出で其の出陣を祝した。斯くて家康凱旋の数年後遂に甚右衛門の願書は探用されるに至った。

慶長十年庄司甚右衛門の提出した願書と云ふのは左の如きものである。(浅草区史―吉原由緒記参照)

三ヶ条の覚

一、遊女を買ひ遊び候もの遊興好色にふけり身の分限を不レ弁家職を忘れ不断傾城屋に入り込み長居候得其 傾城屋の儀は其の者の方より金銭を多分に申請候得ば幾日も留置き馳走仕候 然間おのづから其の主人親方への奉公を欠き引付横領いたし候事は傾城屋共金銀を限りに幾日も留置候故と奉存候一ヶ所の場所御定め被下候はゞ只今迄有来候所々の傾 城屋其を一定に集め吟味仕自今は一日一夜の外長留めは致させ申間敷候事

一、人を勾引候者の義前々より堅く御制禁に被遊候処今以粗有レ之候 当時御府内においても人を勾引候程の不屈者其有レ之候 其の子細は前年困窮成者の娘を養子と名付貰置成長の後妾奉公又は遊女奉公に出し多分の金銀を取世に仕候 斯様成不届もの彼方此方よりみめよき娘を五三人宛も養子に仕り十四五歳に罷成候へば右の如く奉公に出し申候 実の父母方より申分申来候得ば種々為を申少々金銀を出し申すゝめ実の父母相果候か又は遠国などに罷在候得へば己が自由に相叶傾城に売出し多分の金銀を取申候。

箇様成不届もの共は、人を勾引候奉も可レ仕様に奉レ存候、如此の訳をも乍二存知一勾引者養子娘を相判にて傾成奉公に召抱候もの有之候様に及二承申一候、傾城屋其一所に召集め申候はゞ勾引者の儀は不レ及レ申養子娘の節吟味仕左様成者を奉公に出し候はゞ急度御訴可二申上一候事。

一、近年世上御静謐に治り候と云へ共其の諸洲平均の御事も程遠からず候得ば自然と透間を窺ひ悪事を相企可レ申諸浪人の類も可有二御座一かど奉レ存候 左様成悪党の類は人目を忍び住所をも不二相定一流浪いたし可二罷在一候 遊女屋の儀は金銀だに遺候得ば其者の出処詮儀仕候儀は無二御座一幾日も留置申候。右の如きの族所々方々の遊女屋杯に罷有候事も難レ計候 此の外当座に於て不届仕出し欠落候もの杯当分居所には遊女屋に勝れたる所無二御座一候間所々の遊女屋のかゝわり罷在候はゞたとひ御検議者たりともたやすく御手に入申回敷奉レ存候 此度奉レ願候迪傾城町一ヶ所に被レ為二仰付一被レ下候はゞ此の儀は殊更念を入何者にても見届たる者傾城町へ致二徘徊一候はゞ其の者の出所吟味仕彌怪敷存候はゞ急度御訴可二申上一候事。

御公儀様御広大の御慈悲を以奉レ願候通 被レ為二仰付一被レ下候はゞ難レ有奉レ存候。以上

中央集権の制度を施さんとの念は遠く家康江戸入府当時乃至は夫れ以前にあったらしく一説には売淫を奨励し地方豪族をして遊情文弱に流れしめんとしたとの説をなすものあり、当否は暫く之をおき家康江戸入府当時市中に散在せる遊女につき風紀上面白からずとの意見にて其の処分を願ひ出でたる者があったのに対し

「日本全国諸武士の末々の者に至るまで江戸に来りて諸国に無き楽しみを致さんと存じ勇み出ずるこそよけれ 苦しからず候間其の儘にさし置き候へ」

と云ったのは彼の胸底深く画策せし中央集権の素地と見るも誤りは少いであらう。

即ち政策上之が許可すべきことを評議したが時あたかも大阪との和談破裂して兵馬将に動かんとしてゐたため一時保留となり漸く六ヶ年を経た元和三年三月に至り

「願意により一ヶ所差許すべきを以て自今江戸及近郊に於ては遊女の類一切厳禁すべし」

とて左の如き五ヶ条の禁訓を示し之を許可したのである五ヶ条の禁制とは

一、傾城町の外傾城屋商売いたすべからず、傾城町囲の外何方より雇来候其先々へ傾城遺候事向後一切停止たるべき事。

一、傾城買遊び候もの一日一夜より長留いたす間敷奉。

一、傾城の衣類惣縫金銀の摺箔等一切着させ申間敷候何地にても紺屋染を用ひ可レ申事。

一、傾城町家作普請等美麗に致すべからず、町役人は江戸町の格式の通り急度相勤可レ申事。

一、武士商人体の者に不レ限出所慥ならず不審成者致二徘徊一候はゞ住所致二吟味一彌不審に相見候はゞ奉行所へ訴可レ出事。

右の通り急度可相守申もの也

である。かくて同年茅屋町に二丁四方の地有を与へられた、茅屋町とは現在の日本橋区和泉町、高砂町、住吉町、難波町及其の附近である。

而で叢生せる茅葭を刈り沼地を填(う)めて之を吉原と名附け翌四年十二月一部分の開業を見るに至つたのである。

吉原の名は葭原の葭を吉の字の壽きを仮りて命名したものであつて当時の町名は左の如く

(角町は稍々遅れて寛永三年十月九日に至つて開業したものである)

江戸町一丁目(江戸繁昌の余慶に因みて町名を附し柳町より来りて住す)同二丁目(鎌倉河岸より来りて住す)京町一丁目(麹町より来住京都より東下せるもの)同二丁目(吉原町開業をきゝ上方より来りしもの住居せり)角町(京橋の角町より来住)

以上は吉原曲緒記によりて見たる元吉原の起源であるが慶長見聞集には このよし原を見立て傾城町をたてんとこゝやかしこに家作り、京町、江戸町、ふしみ町、堺町、大阪町、塁町、新町など名づけ美しく軒立ならべしがこれに惑ひて身を亡ぼすもの多かりしかばとかく彼等を江戸に置くべからずとて慶長年中百三十余人の女共を悉く西国へ流せしかば吉原荒廃しけるを甚右衛門更興せり」とあり

其の何れが正しきかを知ることは出来ないが武江年表にも甚右衛門創めて開くと載せられてゐるのを見れば前者とすべきであらう。

吉原の開基は各地方に及び遊廓の設置は簇出した。当時公許の遊廓として其の大なるものを挙げれば、京都では島原柳町、大阪では瓢箪池、兵庫では磯町、近江では大津、馬場町等であらう。

「京都の遊女町は島原といひて朱雀にあり寛永年中六条西洞院の東よりこゝに移したるなり。歌舞技にも多くこの所の傾城賈の体を狂言に仕組みたるよりその総名をさへ島原と呼びたるを以て見ばその盛なりし事思ひ遺るべし。祗園町の娼楼またこれに劣らず栄えぬ。

大阪にては此時代の初めには遊女町処々にありしが、寛永年中新町に地を賜はりしより多くの色里を此一所に集め田圃を開きて新に四条の町を作りぬ。その中に瓢箪町、佐渡島町、越後町、吉原町等の七町あり、絲竹の声洋々として江口、神崎の昔も思ひ出でられ長柄の傘に高足駄も優しく紋日の道中、身請の門出など賑々しき限なり。道頓堀、曾根崎新地、また堀江町にも妓楼うち続きその他処々の築出し新地などに遊里を設くるもの年を追ふて増加し又官禁を犯して隠し売女を養ひ茶屋、煮売屋の店を開き茶酌人などゝ名づけて実は春色を売らしむるもの多かりき。遊女の数を云へば元禄宝永の交、京島原に八百余人、大阪新町に六百三十一人ありき、これを盛なりと云ふべけれども江戸吉原の繁華なるには比ぶべくもあらず」(日本風俗史)と此の時代に於ても遊女は情を鬻ぐだけでなく香、茶、歌、俳諧などの道に通ずるもの多くまた何れも歌を謡ひ絃を鳴らして興宴を助けたのである。而て士庶ともに青楼に至りて之を招聘する事を恥ぢずむしろ世風一般に遊里に豪遊する事を以て一つの誉とし競ふて金銭を浪費しこれが為に猗頓の富も一朝にして赤貧洗ふが如きに至るものが多かつた。高士豪商富を吸収すれば遊里の繁昌は日々に勝り、遊女は安を厭はずして錦繍を装ひ綺羅を衒ふ。その風は自ら他に移りて人の妻、妾、娘子これに倣ふものが次第に多くなつたのは当然である。

慶長見聞集に記されたる次の一文は以て当時に於ける売笑の風を知るに適はしきものであらう。

『見しは今江戸繁昌にて諸人ときめきあへる有様高きも賤も老たるも若きも賢も愚なるも彼まともの一つやんごとなし、されば吉原町を見るに遊女共我おとらじと紅白粉を顔に塗り、門毎に立ならびたるは誠に六宮の粉黛の顔色も是には勝らじといひたり中立門でなふ御身遠はしろし召されずや粉黛を召さるゝは、かたち愚なる人のはかり事也此の上臈衆の外に和尚様と名附よしよく無双の美人達在はしますが此人々は生れながらの色かたち其のまゝにて粉黛と云ふ事をば名をも知り給はず其面影花にも月にもたとへがたし、はらヽとこぼれかゝひたる髪のほつれより外に見えたる眉の白い芙蓉のまなぢり丹花の唇心言葉もおよばれず金翠の装ひを飾り桃色のこびをふくみ人目をよけて奥深く屏風几帳の内にまします御 面影あからさまに坦問見ることもかたし、せめて御身達に玉簾の隙よりもれ出る衣の香ばかりをそとふれさせまゐらせばや伝へ聞く業平の中将に契りを結ぶ女三千七百三十三人侍る内にべつして十二人を書表はし侍る中に紀在常の娘第一に書れたりしも此上臈衆によもまさらじ、此和尚様達の御姿をば漢の李夫人を写せし書工も書くべからず、梅が香の花に匂はせて柳が枝に咲かせたらんこそ此姿にもたとふべけれ、昔かぐや姫と云ふ美人有しが是に皆心まどはせり此姫の曰く我に逢見し人は龍の首に五色に光る玉あり、それを持来り給へ、諸越に有、ひねづみの皮衣を取てたべ、天竺ごうがの底に有こやす貝を取て給へ、東の海に逢来と云山有、それに銀を根とし金を茎とし白き玉を実として立る樹あり一枝折て給はらむと仰有しかば皆人聞て世にも有物なければこそ、かぐや姫の好み給へるとてコマ諸越天竺へ実をもたせ人をあまたつかはして是かれと求め来るを姫に奉れば是に非ず益なしと宜ふ、又金銀珠玉にて物の上手に玉の枝を作らせ送り給へば誠か と取つて見つれば偽をかざれる玉の枝にぞ有けるとて終に人間に逢ひ給はずして天人と成て天上へあがり給ひぬと竹取物語に見えたり。若此のかぐや姫にやたとへんたゞ是天人の影向し給ふぞと語れば、皆人聞いて其面影を一目見ばやと心空にあこがれ浮立雲の如くなり。

去程に此遊女を諸人に見せ心をまどはせんと計事をめぐらし能歌舞枝の舞台を爰かしこに立をき、そんしようそれさまの御能有、かふき舞有、と高札を立おけば是を見んと貴賎どんじゆをなす処に笛太鼓つゞみ謡のやくしやらそろへ、はやし立る時に和尚舞台へ出、ひきよくを盡す遊舞の袖是や誠の天人ぞと皆人見ほれ、まよひて此世は夢ぞかし命もをしからじ宝も要なしと貯へ持たる財宝を皆盡し果てその上はせんかたなく人をすかして銭金を借り身の置所なくして、かけ落する者もあり、ばくち、すごろく、を打て御法度におこなはるゝも有、主、親の貴命にそむき逐てんするもあり。盗みをなして 首切らるゝも有、女をさし殺し自害し共に死するもあり、下べの者は其家の舞台につかはるゝも有、身のはて色々様々也。』