新吉原の建立

明暦二年彼の振袖火事として有名なる江戸大火は夜間営業禁止以来さびれかゝつた吉原の廓をも一灰の焼土として化し去るに至つた。之に先だち吉原は其の城下に近く体面上面白からずとの意見により屡々場所替への論があつたが吉原の営素者頓に拝命すべくも非ず然しながら明暦二年十月九日町奉行石谷将監より

「只今迄の場所は御用地と成りしを以て屋敷替へを命ず、替地は浅草後日本堤或は本所辺の両所の内に決すべし」

との厳命否むべくもなく遂に此の際代地を観音に栄ふる日本堤の地に請ひ、

「遠所に屋敷替の代として所徳数条可レ被二下置一」とて

一、只今迄は二丁四方の場所代地にては五割増に二丁に三丁の場所被二下置一候事、

一、只今迄昼ばかり商売仕候処自今昼夜の商売御免被レ遊候事。

一、御引料として御金一万百両被二下置一候 但小間一間に附金拾四五両ならし、(同年十一月廿七日に浅草御蔵にて金子受領。)

一、御町中に二百軒余有レ之候風呂屋悉く御潰し被レ遊候事、此儀は右風呂屋共髪洗女と名付吉原町の傾城におとらざる遊女を抱置昼夜商売仕候に付悉く御停止に被レ存二仰付一候

一、遠方へ被レ遺候にては出火の節跡火消等の町役御免被レ遊候。

右の特典を与へられて同三年二月中移転の計画をもつて着々準備をしてゐた時恰も同年正月十八日本郷丸山本妙寺より出火し、前述の如く江戸全市の大半を焼き吉原亦焼失の厄を被るところとなり小屋掛けにて営業すべきを命ぜられたが、同年六月初句遂に移転を二度命ぜられ同月十五日十六日中に今戸、山谷、鳥越の農家に賃借りして営業し普請の竣成を待つて之に移るに至つた即ちこれが現在の新吉原で当時元吉原に対して此の名が起つたのである。

新吉原建立の後更に制度を設けて之を札に書き吉原の内外に立てたが新吉原の制札と称せられるものが之である、これは今日までも尚廓内にある其の文面は

一、前により禁制の如く江戸市中の端々に至るまで遊女の類隠し置くべがらず、若し違犯の輩あらば名主、五人組地主まで曲事たるものなり。

一、医者の外門内乗物無用の事 附鎗薙刀の類用ふべからず

の二ヶ条である。尚之に先だつ六日の布令には左の如きものがあつた。

明暦三年丁酉六月娼舘を府下吉原に開設するを許す因て市街に布令す。

布令に曰く

「本月十六日を期し市街の浴肆に蓄舍する娼妓を驅集して吉原の娼舘に移転せしむ爾後若し尚浴肆に娼妓を蓄舍するあらば伍保互相に檢覈して其の娼妓は速に吉原の娼舘に移転せしむ可く決して此の禁令に違犯する有らしむる勿れ」(古御触書巻四十六)

と、即ち以前よりも一層私娼の取締りを厳重にしたのである。而して之と同時に夜間に営業がもとの如くに許可されたが、遊女の外出を禁ずる事、遊客の流連を防ぐこと、遊女の衣服を質素にする事、宏荘な妓楼の築造を禁ずる事、挙動の怪しき者を密告する事等は以前と大差なく唯此処に注意すべきは課税と楼主の労役のことである。

遊女の課税は足利時代の制に倣つたものであつて営業を許可した上は其の運上(租税)を取り立てゝ財政の助と為さなくてはならぬことより遊女に対して税を課したのである。又楼主の労役と称するのは、楼主を労役に使ふ意味ではなくして祝賀或は祭日等に遊女、又は禿を出して之れを段とした事を謂ふのである。即ち一種の課税であつて千代田城及評定所の祝日の時には三人の遊女を出だし、神田明神及び山王の祭には禿を出だす定めとなつた。

遊女の階級は初めは太夫、端女郎との二種があつたが、寛永十七年頃に格子女郎、及局女郎と云ふものが出て、明暦三年頃よりは又多くの階級を生じた、之を順列すれば大夫、格子女郎、端女郎、初見世女郎、百蔵女郎、喧純女郎、鉄砲女郎、散茶女郎、梅茶女郎及び茶女郎等である。妓楼も之に準じて種々の階級を生じた。即ち、大夫見世、格子見世、梅茶見世、切見世及び喧純見世等であつて其の後も種々に変化したが要するに玉代の差に依りて定めたに外ならないのである。

上図は深川の妓舍(こどもや)の光景である。「こども」(娼婦)の内的生活を活写して居る。

下図左は辰七場所の総図で同右に嘉永の頃流行した所謂船饅頭で船中の売色である。

安政二年の仮宅に於ける吉原遊女。深川者に比べて、どことなく荘重な威儀を繕て居る。

国貞筆深川お旅床の図。深川「お旅」の有様を写す。