新吉原の町々及町名主

新吉原の地は古の千束郷龍泉寺村の一部であつて、開設当時は沮洳の地であつたのを埋め、南北京町間百三十間、大門から仲の町水戸尻に至る東西同百八十間此の総面積二万七百六十七坪であつた。

而して之を囲らすに溝渠(俗におはぐろどぶ)を以てし堤に面し、大門を設け玄関となし、中央の大道(俗に仲町と云ふ)を以て東西に画し三大横道を設けて、各町を分ち、溝に面して門を作り不時の用意とした。蓋し此の制の先たるや元吉原の開設前に私娼は何処へでも客の招聘に応じて居たのを、元吉原時代に於て之が慣習を破るために大門を玄関とし囲むに今の日本橋区「ヘツツイ」河岸の堀を以てし、遊女を一切外出させないやうにした遺制によるのである。五十間道を過ぐれば即ち大門で、大門を入ると両側に茶屋が軒を並べてゐた、町々は由緒書に、

一、日本堤より吉原大門に迄五十間程有レ之候間五拾間道と申す。土手より大門の方へ下り候坂を衣紋坂(えもんさか)と申候。是は吉原町に参り候客、此の辺にて衣紋をかいつくろい候故衣紋坂と名付申候、最初縄張りの節大門より土手迄直ちに道を付候へ共備前守様御差図により道を三曲に作り申候

一、新吉原町江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町。此五町は元吉原より有来り候町の名にて候

揚屋町

右揚屋町の儀は元吉原にて此町の名無二御座一候。

五町中に二軒三軒づゝの揚屋共罷レ在候。新吉原に移申候て場所広成候て揚屋共を一所に集め、揚屋町一丁取立申候。依レ之当町の儀は五丁の差図を請、町役相勤申候。

境町

右境町の儀は新吉原に引移、寛文八年申三月中、江戸町二丁目名主町人共御訴訟申上面々の居屋敷の内を切り、新道に作り、境町と名付申候。此の時分端々の売女御詮議御座候て端々罷在、茶屋、遊女持とも吉原町え駝言仕候間、其段御訴訟申上候得ば御慈悲を以て御免被レ遊候に付毎度御訴申上、茶屋遊女共惣て七十余人方々により吉原え入込申候、依レ之石の新道を作、右の者共に借宅いたさせ申候。

伏見町

右伏見町の儀も境町を取立候節同時に新道を作り伏見町と名付申候。其比江戸町二丁目の年寄ども、多は生国伏見堺の者共に有レ之候故、右の新吉原も古郷の名を付申候。」とある。

而して庄司甚右衛門は、元吉原の開設と共に惣名主役を命ぜられ、新吉原に移転後も尚其の職を奉じ、親父と称せられ、俗謡にまで唱はるゝの勢力をもつてゐた。

町鑑(かがみ)によりて享保十七年以後の名主を記すならば、

享保十七年 寛保三年 文政元年 弘化三年 江戸町一丁目 庄司又左衛門 同上 竹島仁左衛門 同上

同二丁目 西村佐兵衛 同上 西村佐兵衛 同上

京町一丁目 石黒庄兵衛 駒定甚四郎 駒定六右衛門後見、山口庄兵衛 当分組合持

同二丁目 山本平左衛門 川瀬喜左街門 山口庄兵衛 同上

角町 大塚清右衛門 山口甚兵衛 山口庄兵衛 同上

揚屋町 名主月番持 同上年番持 同上 同上

(番外)万延元年

江戸町一丁目五十軒道 竹島仁佐衛門 江戸町二丁目 西村徳兵衛 揚屋町 伜 与之作

角町京町二丁目 山口庄兵衛

京町一丁目 深山甚四郎

日本堤 新吉原持

かくして明治維新となったが第五大区時代には

明治七年 五大区十示区(後十一区となる)

戸長 田中喜宜 少田山三郎

年寄 太田治兵衛 奥田平兵衛

であった。以上はその概要である。而して俗に伏見町と称するは江戸町二丁目の俗称であって山城伏見より東上したるもの多きにより、又新町といふは京町二丁目の俗称にして各所より入りしもの新に町屋を作ったので斯くは称せられたのである。