元禄時代は、江戸文化の全盛時代であつたと同時に文弱遊惰の風は一世を覆ひ淫風蘯々として天下を吹き播いた。此の時代の遊廓は全国に亘って十五ヶ所もあり城町又は街道の宿駅或は繁華な港津に多かった。当時有名なものは近畿では堺の乳守高洲、奈良の本辻鳴川、伏見の鐘木泥町、大津の馬場町、東国では伊勢の古市、高張の熟田、三河の岡崎、駿河府中の島、北国では越前の三国敦賀、佐渡の鮎川山崎町、西国では播磨の宝鶉野、備後の鞆、備中の宮中、安芸広島の多々海、宮島の新町長門、下の関の稲荷町、筑前博多の柳町等であるが、肥前の長時は当時唯一の海外貿易の港として其の繁昌も比類なく丸山町寄合町の二ヶ所の遊女町には南京の豚尾、和蘭の赤髯様々の楽器で鴃舌の音を弄して遊び、遊女は舶載の珍品奇物を衣服に裁り装飾となして綺羅を誇ったものである、当時の俗謠に「京の女郎に江戸のはをりを持たせ長崎の衣裳を着せて大阪の揚屋で遊びたし」と云ったのは各々当時に於ける各地遊廓の長所を指示したものである。
而て、元禄時代の遊女は京に八百、吉原に八千と呼ばれ、其の後京の島原千人吉原三千人と号せられたのを見ても其の如何に隆盛をきわめたかを知るべきである。
然るに、元禄もすぎ京保九年吉原は又も夜間営業の禁止を命ぜられた。即ち当時町奴と旗本の衝突が血の惨劇を呼び起したのに起因するのであるが、此の時も亦寛永時代の吉原と同様さしも隆盛を誇った元禄時代の吉原は一時に暗の巷となり、閑古鳥が鳴くやうなさびれ方となった。之に次ぎ、寛政の改革に際しては、時の執政松平定信風紀矯正の先鞭を遊里につけ新に娼楼を作ることを厳禁した、時に寛政元年七月である。而て新に吉原に肝煎りなるものを設け其の取締方として八十ヶ条に亘る寛政吉原掟証文が定められた。
而て私娼の取締は一層其の峻厳をきわめ湯屋に於ける男女の混浴を禁じ戯曲三絃の教授を業とする婦女の提警をなし之等一切風俗を乱るものを取締った。当時に於ける遊女にも亦多くの階級あり散茶女郎から分れた呼出、昼三、月廻、附廻及梅茶女郎から分れた座敷持、部屋持(へやもち)、切見世女郎等で前の大夫端女郎、格子女郎、局女郎等は廃絶し妓楼も大籬(総籬)半籬(交(まぢ)り)大町小見世(町並)小格子(河岸見世)切見世(長屋局見世)等と別に新しく出来たのである。其の後天保時代に至り、水野忠邦松平定信の遺志を継ぎ、享保寛政の政典を復興し之等風俗問題の改革に其の峻厳を致した為、私娼は一時影をひそめ淫本淫書の類も禁止せられ、徳川三百年の久しき淫風漸く末世に至り矯められんとしたが其の苛酷に近きは上下の憤怒を買ふことも甚しく久しからずして其の職を兔ぜられるに至った。(塚田順次郎著色情狂と売笑婦、及び次に述べる私娼の項参照)
今吉原遊廓のみにつき元禄以後各時代別に妓楼及娼妓の数を調べて見るに分明せるものは次の如くである。
時代 妓楼軒数 娼妓員数
元禄元年 ― 一、八八七
享保十六年 一一三 二、一一二
享和三年 一五六 一、九三八
文化六年 一五三 二、二九〇
文久元年 二三一 三、〇七六
(葛岡敏著どん底より)