私娼及私娼窟の取締

私娼は隠売女と称し、幕府の厳禁する所であった。然るに遊廓が吉原に移って市中に遊女の姿が見えなくなった時、隠売女を置き色を鬻がしむるものが出来た。それも最初はきわめて少く、品川、千住等の場末に五六軒あったゞけであるが吉原の夜間営業禁止以来急に増加して諸々に隠売女が現れ、吉原にも勝る隆盛をなした、本郷根津、音羽護国寺等夫れであるが、世に称して之を岡場所と云ふのである。音羽町は元禄年間、護国寺建立の時起り根津は承応中、根津神社新築後成り、音羽町は其の後廃絶したが、根津は現在の洲崎遊廓の前身として賑盛をきわめた。

享保以後には浅草田原町辺より下谷筋違ひ辺本所深川迄に推し及ぼし芝三田、赤坂田町、麻布市兵衛町、四谷鮫ヶ橋等数十ヶ所に娼家が出来た、すべて岡場所―置場所と称されて隠売宿である。

幕府は之を絶たんと思ひ屡々禁令を出したが、食上の蝿を追ふにすぎなかった。其の中でも吉原に対抗して全盛をきわめたものは深川辰巳の里と称せられる岡場所である。

地、江戸の巽に当り文化文政の頃最も盛んとなり北里(吉原)の遊女の濃艶に比し淡白を以て愛せられ、通人又は粋人と称せられるものゝ多くはこゝに集り豪遊連飲をなしたと云ふ。隠売女(私娼)には穐類多く湯女、女芸者、女踊子、比丘尼、白人ケコロ、鳥追、山猫、飯盛及夜鷹(辻君)等である。湯女は風呂屋と称する湯屋等の妓楼に抱へられて密に情を鬻いだもので神田雉子町の丹前風呂、深川富岡町の丁字風呂等は有名なるものであらう。

慶長見聞集によれば、

天正十九年卯年夏の頃かたに伊勢与市と云ひしもの銭瓶橋の辺りにせんとう風呂を一つ立る湯銭は永楽一銭なり、みな人珍らしきものかなとて入給ひぬ。

されども其の頃は風呂ふたんれんの人あまた有りてあらまつの湯の雫や息がつまりて物云はれず烟にて目もあかれぬなどゝ云つて小風呂の口に立つさがりぬる風呂を好みしが今は町毎に風呂あり、ビタ十五文廿文づゝにて入るなり、湯女と云ひてなまめける女ども廿人卅人ならび居てあかをかき髮をそゝぐ、扨て又その外に容色たぐひなく心ざき優にやましき女房ども湯よ茶よと云ひて持来りたはむれ浮世語りをなす、かうべをめぐらして一度笑めぱ百の恋をなして男の心をまよわす。と

「彼等は浴客の垢を落し髮を洗ひ日が暮れゝば浴場を流し終りて上り場に座敷を構へ屏風を廻らし化粧に粧(よそほい)をこらし衣服を飾り歌を謡ひ絃を鳴らし客を集めた」(日本風俗史)のであつた。然るに吉原の開基せらるゝに及んで厳に之が禁止せられたが地方の温泉場には尚ほ湯女の笑を売るものが多かつた。吉原の夜間営業禁止以来市井に隠売女の隆盛を来すや湯女風呂の繁盛の誘起するに至り寛永及承応年間には左の如く。

承応元年壬辰六月浴肆に蓄舍する娼妓は定規に照して三名に限る可く決して他来の商家若しくは同業の浴肆に往来して売淫せしむ可からざるを戒令す。(古御触書巻四十六)

と云ふ如き戒令の出ずるを見るのである。しかも湯女風呂の営業者は之をきかず遂には禁戒を破りたる報ひとして一時に三十七人の磔刑に処せられる者を出した。

寛永十四年丁丑十二月朔日吉原大門内に於て風呂屋、(混堂を謂ふ)営業者三十七人を磔刑に処す是より先き江戸風呂屋に遊女三人以上を蓄舍するを禁停するも今これに違犯するを以てなり(寛永日記増補巻の十三)

明暦三年新吉原の建立せられるや、江戸市内の湯女風呂を悉く潰したが、其の数二百軒に及んだと云ふ。其の如何に跋扈跳梁したるかを知る事が出来るであらう。

比丘尼といふのはもと能野比丘尼、勧進比丘尼などゝ云つて地獄変相の書を持ち歩き因果応報の理を哀れな声音でもつて説き勧進をなしたのであるが、後になつて黒羽二重の頭巾の下に、白粉紅唇三絃を鳴らし、嫖客を誘ひ春を鬻いだ。然るに元文六年江戸で比丘尼と武士の情死があり、其の後これは厳禁せられるに至つたが諸国には其の数多く風俗を乱すことも多かつたといふ。

此の外下等なる遊女には蹴コロバシ、綿つみ、山猫、、竃(へつつい)ハラヒ、などがある。土弓場などの女も多く色を売つた。又街道往還の宿舍に傭はれ枕蓆を薦めるものに飯盛と云ふ者もあつた。

享保三年十月には食売女に対する左の如き令示がある。

近年官道の旅店に蓄舍する食売女の其の数を増加する事を聞く自今江戸四方十里内外を問はず官道に於ては旧規の如く旅店毎一戸に食売女各二人と為しそれ以外の人員を蓄舍す可からず(憲教類典抄巻十)

最も下級なるものに夜鷹と云ふものがある。夜発又は辻君とも云はれ京阪では総嫁(きうか)又は売女(ばいた)と呼ばれる者で、夜間燈光暗き街頭に蓆を携へ、行人の袖を曳き若干の報酬を得て情を鬻いだものである。

又港津河江などには船饅頭といつて小舟に揖をさし碇泊の舟を窺ひ、又岸に寄せて行人の裳(すそ)にすがり舟中に誘ひて怪しきふるまひを為すものがあつた。

医学博士上林豊明氏は江戸時代の売笑史を研究し大体これを五期に分つて居る、氏の分類を大体に於て肯定して、江 戸時代に於ける私娼について、更に少しく著者の研究を補足して述べやう。(一五九、新小説売笑研究号―売笑史雑考)

第一期は慶長、元和を中心とする幕府創立時代にして、元吉原の開基即ち公娼制度の確立期なり。第二期は元禄時代を中心とする新吉原隆盛の開緒時代とす、此の時代に於ける私娼跋扈につき注目すべきは風呂女(湯女)の隆盛時代で寛永の初年より慶安年間にかけて、家光将軍の幕府の基礎、漸次に固らんとする頃にして寛永三年七月より慶安五年六月に亘り約十回風呂屋女に関する禁令が出てゐることである。万治、延宝、天和と各年代に風呂屋女、湯女の禁令が現はれ、殊に寛文年間には茶屋女法度の令によって密娼婦の大掃蕩試がみられ、又延宝六年には茶屋女制限となり、天和二年にも茶屋禁止令が出て居る。次に第三期は元禄の享楽時代にして吉原町の大繁昌となると共に市中の密娼も大に流行した、従って此の時代には淫売女についての禁令が数多発表せられてゐる。(元禄二年二月より寛永七年七月に亘って此の種の禁令が約十三回も発せられてゐるのである。

上林氏の所謂徳川時代の第四期とは寛政年間に於ける松平定信によって行はれた寛政の改革を主としてゐる。此の時代に於ける隠売女禁止の令に寛政元年に初まり同十一年の遊芸女師匠の禁止に至るまで数回の発令を見、大部分の隠売窟は廃止されたといふ事であるが寛政元年の隠売女禁止令とは次の如きものである。

寛政元年巳酉四月郡村ノ密娼ヲ禁止ス

布令ニ曰ク諸国郡村ニ在テ娼ヲ雇ヒ業ヲ営ムハ古来全ク准允ヲ経シ者若クハ積年領主ノ許可ニ係ル者ヲ除クノ外厳ニ之ヲ禁止スルモ頃者汗浸ニ流レ各地ニ妓娼疑似ノ者有ルガ為メ、郡村ノ風俗ヲ破壊シ耕耘ヲ懈廃シ竟ニ近郊ニ波及シテ資産衰頽シ一家離散スル者アルヲ見ル。且ツ為メニ不良者ノ闖入スルヲ免レズ、因テ今後密娼ヲ雇置スルヲ厳禁ス。若シ之ヲ含匿シ他ヨリ発露セバ其罪該地ノ吏員ニ連及セン故ニ含匿スル者アラバ速カニ捕拿ス可ク、且ツ新夕ニ娼業ヲ許可スルヲ停止シ又従来ノ営業ニ係ルモ勉メテ滅省スルヲ要ス。(地方類集完)

これは徳川理財会要に所載せられてゐるものを著者が上梓したもので上林氏の所謂江戸時代の売笑史第四期に於ける最初の禁令とはこれを指すものであらう。其の後寛政四年二月には公領地密娼の営業者の処分規定が設定され発令を見た。

寛政四年壬子二月、公領地密娼ノ営業者ヲ処分スルノ方規ヲ設定ス、

代官ニ令示シテ曰ク。其ノ一、公領地内密娼ノ営業者ヲ発見セバ査覈ヲ経テ江戸奉行所ニ押送スルノ慣例ナルモ村民ノ困難スルヲ以テ今後ハ該地ノ郡庁ニ於テ按験シ代官其ノ処罰ヲ安定シ奉行ニ稟候スルノ後チ処分ス可シ。其ノ二、凡ソ密娼ノ営業者ヲ按験シ他ニ兇行ナキ者ハ雇主ハ五年間其ノ田圃家宅ヲ官没シ承佃者ヲシテ之レヲ耕耘セシメ、其ノ収益金ハ該村若クハ近村ノ豪農ニ委託シ棄児ノ養育費若クハ窮民救恤費ニ貸付スベシ、又連累者ハ過料、手鎖等適応ノ責罰ヲ加フ可シ。其ノ三、娼女ハ村吏ニ交付シ代官ノ意見ヲ以テ開墾地其他婦人寡少ノ地ニ嫁与シ其ノ父母ノ意見ヲ尋問スルヲ須ヒズ但シ命付ノ後一タビ之ヲ通告セヨ。(地方類集完)

此の規定に於て、最後の一項たる密娼の処分方法は一寸ふるってゐる。即ち密娼を処罰するに父母の意見を須(もら)いずして開墾地の如き婦人の寡い地にやって嫁がせたのは当時の社会政策を研究するものの注目すべきところであらう。

さらに、寛政五年には江戸市街の浴場に於ける男女の混浴を禁止し、翌六年七月には江戸に接近する郷村も亦この令に凖拠すべきを各村里に発令してゐる。(寛政度御触御書附類留巻三下)

天保集成に録すところによれば、寛政三年正月に浴肆の提警方規が発令されてゐる。参考のためこれを記して置かう。

令示ニ曰ク。府内偏隅ノ土地ニ男女混同ノ浴肆鮮カラズ蓋シ男女ヲ区別シテ入浴セシメバ自ラ費用ヲ多消シ得失相償ハザルニ因ルト聞ク、是レ已ムヲ得ザルニ似タリ。若シ夫レ繁昌ノ市街ニシテ男女ヲ同浴セシムルハ旧慣ニ仍ルト雖モ亦濫放ト謂ハザル可カラズ、然レドモ従来或ハ時刻ヲ以テ分チ若クハ一日ヲ間隔スル者ハ却テ紛渚スルニ由リ自今繁盛ノ市街ハ言ヲ俟タズ偏隅ノ土地ト雖モ男女ヲ混同シテ入浴セシムルヲ禁停ス。因テ男女混同ノ浴肆ハ亙相商議ヲ悉シ二月十五日目以後ハ一六ノ日若シクハ二七三八四九五十ノ日ト順序ヲ立テ便宜区別ス可シ違犯スル者ハ株式ヲ還奪スルアラン。(天保集成巻二十二)

最後に寛政十一年の遊芸師匠の禁止といふのはその布令を求め得なかつたが、同年六月二十一日同十二年庚申七月に布令して遊伎雑劇を禁止し、民俗の傷害を防いでゐる。(地方類集―令条秘録巻四、新撰憲法秘録巻八)これ等は風俗の取締の令制ではあるが、密売に関し多少の関係を有するものと見てよからう。

如斯、寛政年間に於ける風俗取締の令制によつて廃止せられた密売所即ち岡場所は次の諸地である。(売笑史雑考―一五年九月新小説売笑問題号、上林豊明氏稿)

蒟蒻島、あさり河岸、中州、入船町、三十三間堂、土橋、直助屋敷、新六軒、横堀、井の堀、大橋、六間堀、安宅、大徳院前、土手側、六軒、亀沢町、朝鮮長屋、三島門前、浅草広小路、同駒形町、同田原町、同三好町、金龍寺前、門跡前、新寺町、広徳寺前、どぶ店、柳の下、万福寺、馬道、知楽院門前、新鳥越、神田多町、山下、大根畠、新畠、白山、千駄木、丸山、行願寺、赤坂、市谷八幡、愛敬稲荷、高井戸、青山氷川、高稲荷、明神、三田同朋町、赤羽根、稲荷堂、根芋、高輪、牛町、(かくれ里、下巻)

以上の諸地は寛政年間に廃止されたのであるが、此等は岡場所と称せられる密娼地区で、これを見たゞけでも当時如何に多くの岡場所が存し密娼の践扈跳梁してゐたかを知るべきであらう。而てこれは上林氏によつて説破せられたる如く寛政の治の由て来る可き前代の享楽時代の産物であつて、安永より天明へかけての酒落本勃興時代がこれに当り化政の隆盛期の前駆をなすもので、吉宗時代より此の第四期へかけての中間時代は、宝暦、明和、安永にかけての所謂田沼時代であり幕政の弛緩と共に社会に於ける一種の享楽時代となつた、これが文化史の上に現れ酒落本の発生となつたので換言すれば岡場所の隆盛期であつた。

松平定信の寛政年度に於ける制令も漸く力を失ひ、所謂大御所時代の化政より天保の初年に亘り第二の岡場所隆盛期を現出し、こゝに第五期の密売婦取締たる水野越前守の所謂天保の改革となつたのである。而て此の改革は啻に悪所の取締のみに止らず諸般の風俗の徴に入、細を穿つて一単一動にまで干渉してゐる。(寛天見聞記、天保集成、竹善竊写完、天保集制)今風俗に関係ある二三についての禁令を揚ぐれば、

天保九戍十二月十一日春書ヲ販売スルヲ禁ズ

江戸市街ニ令示シテ曰ク、頃日路上ニ春書ヲ攤陳シ以テ売買スル者アルヲ聞ク従前屡々書冊ヲ専掌スル坊胥ニ命付シ春書装釘場ヲ査覈シ又往年鉛粉磨歯粉ノ袋面等ニ至ルマデ之ヲ点査シ其ノ刻板ヲ破毀シ、既ニ印刷スル者ハ之ヲ水中ニ浸漬シ以テ腐敗セシメタリ然ルモ尚乖戻スル者アル此ノ如シ不粛卜謂フベシ今後若シ違背者アラバ必ズ厳罰セン。(竹善竊写巻上。)

同十三年壬寅六月四日風俗ヲ傷害スル猥褻ノ絵書ヲ痛禁ス。

絵草子掛名主ニ令知シテ曰ク、錦絵卜称シ歌舞伎俳優娼妓芸妓等ヲ一葉紙ニ印刷スルハ風俗ヲ傷害スルヲ以テ今後之ヲ刊行スルハ言ヲ俟タズ已ニ印刷貯蔵スル者卜雖モ一切ニ売買スルヲ禁停ス。其他頃日合書卜称スル絵書ニ至ツテハ書体ノ意匠最モ曲節ニシテ俳優ノ容貌及ビ演劇ノ景状ヲ模写シ之ニ加フルニ表紙装色ヲ施シ不益ノ工力ヲ費シ高価ニ発売スルハ最モ不粛トナス。已ニ貯蔵スル者卜雖モ是レ亦売買スルヲ件サズ自今容貌若クハ演劇ノ景状ヲ模写スルヲ廃シ専ラ忠孝貞節ノ遺蹟ヲ本トシ児女勧善ノ道ヲ主トシ極メテ書法ヲ簡略シテ不益ノ工力ヲ費サズ、又表紙装包等ニ彩色ヲ施スヲ厳禁ス。而テ新ニ彫刻スル者ハ町年寄舘某(市右衛禁)ニ具進シ以テ其査閲ヲ謂フ可シ。(天保集制巻二)

此の外或は髪飾、衣服、食物、其他百般の事物にまで亘つて厳重なる禁令を設けたと同時に風俗上最も見逃し難き売笑地区に対する取締の施されたのはきはめて自然のことである。

当時廃止に遭遇した岡場所は次の如き数に上つてゐる。即ち

深川仲町、新地、表櫓、裏櫓、裾継、古石場、新石場、佃島、綱打場、常盤町、御旅所、弁天、松井町、入江町、三笠町、吉田町、吉岡町、堂前、谷中、根津、音羽、市ヶ谷、鮫ヶ橋、赤坂、市兵衛町、藪下、三田、の諸町である。

(かくれ里)

上林氏によれば此等諸地の廃されたのは天保十三年壬寅三月十八日の発令に依るのであらうと。此の時の禁令は頗る詳細をきはめたもので

一、端々料理茶屋、水茶屋渡世致し候もの内、酌取女、茶汲女、等年古く抱へ置き候もの共近年猥りに相成候趣に相聞候、一体新吉原町の外は深川永代寺門前を初め、すべて隠売女に候は勿論云々(下略)(徳川禁令考、徳川十五代史等)の六句を以て初まり隠売女の取締る可き理由、隠売女の種類、密娼地区廃止後の取扱方法等委曲を蓋し江戸初朗に制定せられたる根本方針を基礎として幕府当局者の態度を明らかにしたものである。尤も此の年初めて売笑取締が厳重になつたのでなく既に、天保四年十二月の町触れにもこれを見ることが出来る水野越前守忠邦が京都の所司代より転じて西丸老中に任ぜられたのは此の年に先つこと五年文政十一年十一月二十三日である。此の年あたりから彼の改革の初令が出初めたものと見られてゐる)

その後の禁令としては、天保九年十月二十八日の町触同十三年十二月の隠売女御仕置改革(東条八大夫編)同十四年の禁令等前後数回に亘つて岡場所の掃蕩が行はれた。天保以後としては弘化元年二月十五日嘉永元年八月十五日の町触等二三を見てゐるが大したものはない。最後に江戸時代に於ける各都市の売笑地区の分布を窺ふに約百六十二個所を数へ得ると。(上林豊明、江戸に於ける売笑婦の地理的分布に就て―土肥博士記念論文集大正六年一月)即ち、

一、元吉原 - 新吉原町

二、深川辺 ― 仲町、大新地及小新地、表櫓、裏櫓、裾継、古石場、新石場、佃、綱打場、常盤町、おたび、入船町、三十三間堂、どばし、直助屋敷、井之掘、あたけ、

三、本所辺 - 弁天、松井町、入江町、六尺長屋、吉田町、本所大下、大徳院前、回向院前土手側、六軒、亀沢町、

四、浅草辺 ― 堂前、朝鮮長屋、三島門前、浅草広小路、浅草駒形町、同田原町三丁目、同三好町、金龍寺前、門跡前、竹町、浅草新寺町、元徳寺前、どふ店、柳の下、万福寺、馬道、知楽院門前、新鳥越、

五、谷中、根津辺 ― いろは、根津宮永町、根津門前町、

六、音羽、赤城辺 ― 音羽、音羽裏町、音羽鼠坂、新長屋、桜木町、行願寺、赤城、

七、市谷、四谷辺 ― ぢく谷、鮫ヶ橋、市谷八幡、愛敬稲街、

八、赤坂、麻布辺 ― 麦飯、市兵衛町、藪下、高稲荷、

九、芝辺 ― 三角、神明、三田同朋町、赤羽根、稲荷堂、根芋、高輪牛町、

一〇、日本橋、大橋辺 ― 元吉原、蒟蒻島、あさり河岸、中州、新大橋、

一一、神田辺 ― 多町、

一二、上野、本郷辺 ― 山下、大根畠、新畠、

一三、白山辺 ― 白山、千駄木、丸山、

一四、青山辺 - 青山、高井戸、氷川、

一五、品川辺 - 品川、

一六、千住辺 ― 小塚原、大千住、

一七、板橋辺 ― 板橋、

一八、新宿辺 ― 新宿、

一九、麹町辺 ― 麹町八丁目、大橋之内柳町辺、鎌河岸附近、

これを上林氏の分類によつて(上林氏は売笑婦分布地区を次の如く分けてゐるが此の分類法は大体に於て私の意を得たものである。)例へば(一)主なる産業地域の近隣、(二)繁盛なる街衙の近隣。(三)大なる娯楽場の附近例へば散歩地域。劇場、競技場等の近傍等。(四)寺院の附近。(五)浴場等の附近等)あてはめて見ると次表の如きものとなる。