芸者とは歌舞撥絃を以て遊宴の興を助くるものを云ひ延宝天和の頃既に踊子といふものがあって、大名旗本などの邸に招かれて宴席の興を助けて居たが、其の後に至り遊女の芸を怠り専ら色を売るやうになってから、別に遊里に於て芸をもつて宴興を添ふるものが出て来た。吉原では宝暦十二年初めて扇屋歌仙なるものが芸妓として名乗り出たものでこれより次第に広く行はれるに至り、今日の如く画然と芸妓と称するものを生ずるに至ったのであると云ふ。
然しながら彼等も亦色を売る遊女の種に過ぎず、深川の芸者の如きは二枚証文と云って一枚の証文には芸を売る由を記し他の一枚には色を鬻がん事を諾したるものを其の抱主に入れて居た、故によんでこれをたこ女郎と云ふのである。(沢田順次郎著色情狂と売笑婦)
芸者は此の外にも江戸の吉原、柳橋、下谷、湯島、芝神明町、又京阪の遊里にもあって客の招聘に応じ酒席に出で酌を取り三絃を合せて歌を歌ひ又密に色を鬻いだものである。
これより先芸者と同様類のものに女誦子といふものがあった。今の舞妓といった格で、踊りを主とせるものであるが、色を売りしきりに風俗を害した為、元文五年幕府は左の如き布達を道中奉行に宛てゝ出した。
女踊子と申す売女これある由、是れ又先達て申し渡せし如く吟味申し付けらるべし。すべて踊子の儀も猥りにこれなきやう申し付けられ候。
かく女誦子を禁じ犯す者は罪に処せられたが女誦子の跋扈はいよヽ劇(はげ)しく、明和、安永のころ芸者の現はれるまで盛んに風儀を乱してゐた。
図は深川の茶屋の有様を写したものである。図にある如く深川の妓は「さし」の有無を見るために障子に穴を明けることが許されて居たが新地の「子ども」の如き初会に好かぬ客を「さし」にする自由を有して居たため障子に初手から切穴が設けられてあつた(下図)。注意すべき慣習である。
国貞によつて描かれたる深川妓風である。右端は子供(娼妓)で左端は羽織(芸妓)である。中央は羽織にあらざれば、所謂黄樽であらう。深川に於いては子供、羽織共に荼屋に来り、酒席も枕席もそこに設られた。故に子供は名符のついた寝具の包を楼子に持して子供屋から荼屋に到つたものである。吉原は客の方が妓楼に到つて笑を買ふこと現今の遊廓に於けると同じかつた。