幕末に於ける井伊掃部頭の遊廓廃止

寛永十年現在の栃木県安蘇郡佐野町を始めとし、隣宿堀米町、犬伏町其の他同席の大部分が当時彦根の城主井伊掃部頭の領地に加へられたが、何分遠隔の地にあるのですべての施政を代官に委せてゐたので、嘉永年間に及んで右の堀米町と犬伏町の一部とに遊廓が出来盛んに風儀を紊乱した。

隣宿堀米の地に公娼の公開せらるゝあり、本宿(犬伏町)上町の辺りにも娼家一両軒是れありたるが如し、今日当地方の男女老幼、物日事日の遊びに事寄せ相率ひて新地(堀米遊廓)の素見に繰込む者多々之あり、流行の鄙語俗謡の多くは主として此輩の媒介に依りて輸入せられつゝあり、到る処学校の設けあらざるはなく、教化普かるべき聖代に於てすら尚ほ風紀上に影響を及ぼすこと鮮少にあらず、況んや教化機関殆んど全く備らず、領主は百数十里の遠きに在りて而も、数年に或は一代に一回領内を巡視する外、常には親しく宿政を視るに非らず、只僅に代官を派遣して支配せしめたる昔時に於てをや、所謂売女及び遊冶郎、無頼漢等の害毒(無頼漢等は多く遊郭に徘徊せり)青春男女の薄弱なる脳裏に深く感染浸透して風儀上殆んど永久に治すべがらざる創痍を蒙りたるや知るべし。(犬伏町郷土誌)

そこで領内の名主は深く之を憂ひ領主に之等売春の業を営むことを禁止されたいと(嘉永六年三月井伊掃部頭直弼公の日光廟参拝の帰途を小山の宿に訪れ)請願するに至つた。井伊公は領内巡視の上何分の沙汰をするとて翌日佐野の朝日森神社に参詣し、その次の日領内田沼村飛駒村に至るまで悉ぐ巡視し、佐野に帰つて宿泊し名主の請願を是認することになつた即ちその次の日である、断然領内遊廓悉く閉鎖の厳命の下されたのは…左の一文は当時代官元持喜三郎に与へられた書翰である。しかしながらその後いつとはなく禁制の破れ再び娼楼が建てられ明治年間に至つて今日の堀米遊廓となつたといふ或人のいふが如く文明の逆転であるかどうかは別として歎かはしいことである。

此間申大儀ニ候 無滞相済致安心候

扨売女一件諸株運上此度申出候事ニ漸ク相成候、右売女の儀ハ誰モ不宜事卜存居候得共他領ノ奸策ヨリ事起リ急ニ取潰シニ成リ候テハ他領之者旗ヲアゲ領分ニハ遺恨ニ存ジ可申哉又ハ領分ニテ制禁ニ成リ候テモ近領ニ場所有之間他へ参リ散肘致候テハ領分ハ衰へ地ノ潤ニ相成候道理ナドト種々ノ疑念ヲ生ジ今暫ク猶予可致方ニ申者多分ニ候処兼々ノ所存聊モ他領ニ拘リ候儀ニ無之自他共ニ是迄難渋之趣明白ニ候間是非此度不申出テハ巡見ノ主意モ相立不申、我等一人気張リ漸ク何レモ合点致申出候事ニ付、如才ハ有間敷候得共此後領分ノ者彼是難渋申立候儀自然有之候テハ不相成、他領ニテモ落書故ニ斯様埒明候杯卜心得違ヒ高慢致シ候テハ領分人気ニモカカワリ可申決シテ左様ニ不相成様隠密承リ候テモ表裏ノ無キ様ニ其方別シテ致心配、能々治候様骨折可申候

我等気張リ「ヤリ付」候事故、不日彼是レ取沙汰有之候テハ徳ニ拘ハリ一大事ニ付、夫故案ジ思ヒ候間此段申置候、精々憐憫ヲ加へ能々取計可申事

但、右様申渡候上ハ売女共当地ニ隠レウロツキ居リ不甲様早々退散致様取計村申、一旦斯様ノ商売致候女共残リ候テハ自ラ風俗ニモ拘ハリ候間、同クハ皆々退散為致候方サツパリト致宜敷心得之為申入置候(後略)

三月廿六日夜燈下ニテ乱筆ス

一覽後火中 井伊

此のほどの旅のつかれもわすれけり

(本稿は太田錦水氏の井伊掃部頭直弼公、公娼廃止断行事実廓清第十四巻第十一号に負ふ)