江戸時代に於ける娼妓揚代金

我が国売笑史について上逓するところ上代より(概観ではあるが)徳川時代までの大要を盡したが、次に明治時代に入るに先だち私は各年代に於ける売笑婦の売淫価、詳言すれば売笑婦が遊客より得る報酬について一瞥を加へて見たいと思ふ。然しながら此の方面の研究は文献を得るに甚だ困難を感じ危く本稿を欠くとこるであったが、最近非常に有益なる研究の発表を得て資料をこれに仰ぐことにした。則ち先に私娼の叙述をしたときにも引用した、上林豊明氏の売笑史雑考がこれである。本稿は同上の引用資料に基くもので進んで研究せんとせらるるの士の為めに私は特に上林氏発表の諸稿を見られんことをすゝめたい。さて売淫に対する各年代の報酬金(現在の揚代金又は花代)について見るに徳川時代では元吉原時代のものは殆んど知ることが出来ないさうである。(吾妻物語、各娼家の評判記を記したのち、たいふ(大夫)かうし(格子女郎)はし(端女郎)いづれも上中下ありといへどもうらみを、おもひ、かきしるさざるものとあり。大夫七十五人、格子三十一人、端八百八十一人とのしるし値段付なし。)

新吉原時代になって後も元禄頃までは同様これを知ることが出来ない。(新吉原移転後四年目万治三年発行の「吉原かゞみ」にも寛文七年開版の「讃嘲記付之大夫」にも売笑価格の記事を欠き、たゞ最後のものは盡しの中の「たかきもの」といふ項に

一、はしのあげせん(端の揚銭)

といふ一条が見えるだけで延宝三年版の吉原大雑書にもこれを見ることが出来ない。が

ともかくもその値段が記されてあるものとしては元禄年間の開版とされてゐる諸国遊里好色由来揃の中に散見するもので其の第一巻に「江戸吉原出処付三野のゆらい」の条下に

大夫 昼 三十七匁 夜三十七匁

格子 昼 二十六匁 夜 二十六匁

局 四匁或は五匁これも揚屋へよべば二十六匁

八九月両度の名月の夜は

大夫 四十四匁

格子 三十二匁

けちは 五分、一匁ののぞみ次第にかりの枕、すがたは値段の高下に同じ、三茶女郎は揚屋行といふこともなく枕代金一匁むかしはこれも二十匁づゝにてありしと也、云々

とあるのが文献としては初めてゞある、元禄の頃は大体これにより想像がつくであらうが同書に記載された京島原の揚銭は

大夫揚銭五十八匁、外に引舟とて、きはまつて鹿恋女郎一人づゝあるゆえ、此代十八匁合て七十五匁、云々

天神上せん、三十匁、鹿恋あげせん十八匁、つぼね女郎二匁、あるひは一匁、是化契(けち)なり云々

とあり吉原の大夫も昼夜とほせば、三十七匁づゞで七十四匁であるから、大体に於て島原のものと同一となる。

降つて貞保三年の著「好物訓蒙図彙」には天神が三十八匁とある。江戸は享保の細見迄大夫六十四匁とあり潤房語園にいふ大夫一日の揚銭三十七匁也云々、とあるのは一日の雇銭で昼夜合せて七十四匁である。と

江戸吉原安永の細見には大夫九十目とあり、然も当時は空位にて其妓昼之也、然らば享保以後七十四匁より九十目と銭を倍したが、之を買ふ客は稀であるか又は妓の劣つたものであるか、大夫格子ともに廃れて安永には散茶以下となり云々(守貞漫稿第十九)とあるのを見れば大夫の仮値はその滅絶時代まで略々同一であつたやうに思はれる。

寛政十年再版の大阪新町細見「みをつくし」(澪標)の諸分の条項には

大夫 六十九匁

天神 三十三匁

芸妓 二十七匁

鹿子位端女郎 二十七匁二分

同芸子 十三匁六分

同店女郎 二十二匁

とあり。同じく寛政十三年の「島原細見一目千軒」には

大夫 七十六匁

天神 三十三匁

端女郎 二十匁

とあり。同時代の京と大阪とでは余り大差はながつたらしい。寛政より後の公娼値段は細見類に多く散見する由なるも、資料を得ないので、ここに述べることが出来ない。

諸国色里値段付といふ一枚摺は年代の記載がないので、明瞭にはわからないが安永年間のものらしく(江戸色里値段付)といふ項に吉原大夫九十目とあり、安永の吉原細見と一致し、又安永年間の印行とせらるる其の好記の記載とよく一致し例ば谷中のいろはは本書にはいろは茶や四百匁とあるに其好記、紫鹿子の値段と略一致せる如き、殊に道楽年代記の如く後世の銀二朱の地は六百匁の値段をつけたのは二朱銀の未だ通用してゐなかつた頃の出版を見るべく、南鐐は安永二年鋳立せられた古銀であるから、本書は夫よかも前の明和の末か安永初年のものでなければならぬ、其の頃の銭六百文は銭七匁五分に当つてゐると―(上林豊明売笑史雑考)本書に依れば、江戸色里値付とある中に

吉原太夫 九十目 入用とも

かうし 六十目 入用とも

中さんひる 金二分

さんちや昼夜付まはし 金一両 こほり川見せ付 十匁 七匁五分

さんちや昼夜 金二分 高いなり 見せ付四百 ちう夜八百文

川岸通 つぼね六寸 片しまひ六百匁 あかぎ明神 呼出し五二匁 ちうや四枚

ちう夜 一〆二百文 おとは町 ざしき持六百文 まはり女郎六匁 ちう夜一〆二百文 ざしきなし

赤のふれん 一切百文 根津権現社内 四匁 ちうや十匁

深川よひ出し 一切金一分

ちう夜 金一両 いろは茶や 四百匁

けい子同 六枚 千住昼 六百匁 夜六匁

矢倉下一切 七匁五分 けころばし一切 三文

よひ出し昼 夜 四枚 舟まんぢう花 三十文

新地見せ付 十匁ちうや 二十匁 夜たか同 二十四匁

丗三間堂見せ付 十二匁 七匁五分 朝鮮長や同 八分

見せによりちがひ有 志田とうぼう町 五十匁

品川見せ付 六百匁 しや 一貫二百匁 よしだ一切 四百文六百文

橋向ひ一切 四百文 ちうや 一貫二百匁 ざう用とも

次に、顧客の方面より見た遊興費は如何、次の営業成績は安攻地震の際新吉原が焼失し、各地に仮営業所を設けた際の記録であるが、これによれば僅に四ヶ月未満で七十万近い漂客による八万数千両の遊興がなされたわけである。

一、新吉原仮宅揚代金左之通町奉行所に書上候写取扱与力より御作事方午井と申仁写置又候此所へ留置候

正月より四月迄

浅草分

揚代金 三万四千二百三十五両

客 二十七万四千九百五十六人

松井町分

揚代金 二万四千七百九十二両二朱

客 二十五万八百九十三人

深川分

揚代金 二万四千五百二十一両二朱

客 十五万八千六百八十三人

〆高

揚代金 八万三千五百四十八両二分二朱

客 六十八万四千五百三十二人

右之通御座候以上

(右之書付年号等相記し不申、按るに安政二卯年十月地震之節吉原町は所々に出火いたし不残潰家に相成、其上出火に相成候由に有之、其節役宅之揚代金書上興に相見え申候)

岡場所に於ける売笑婦の腐肉切資料(淫売価)に関しては

道楽年代記(立川焉馬作明和の末か又は安永初年の刻にかゝる酒落本)

婦美車紫鹿子(浮世編歴斉道郎若先生作安永三年刻版)

全盛東花色里名所鑑(以登州而名隣撰安永九年版)

其好記

諸国色里値段附(一枚摺)

此の外種々の酒落本があるが、酒落本については、私娼の項に於て述べたる如く私は余り多くを知らないので、上林氏の売笑史雑考を一読せられんことをすゝめておく此処には少しく記して置く必要があらうと思はれるので書目の数種についてのみ掲げやう。

艶詞両巴巵言(享保十三年出版洒落本の濫觴ともいはれる)

聖遊廓(宝暦七年刻)

異素六帖(聖遊廓と同時代のもの、ともに酒落本としては最古に属す)

辰已の園(夢の中山人寝言先生作明和七年版)

無益痴禁抄(安永元年)

当世風俗通(安永二年)

南閨雑話(安永二年)

等が有名であり、其の後諸作が続々として現れてゐる。(大久保葩雪氏の酒落本目録によれば安永二年に七種、同二年七種、同四年九種、と漸次その数多くなり同目録には約五百種の酒落本が載せられてあり、その中三分の二に遊里に関するもである)と

なほ公娼の揚代について参考となるべき書目について前に述べたものをここに再録すれば

吾妻物語(寛永十九―二十年)

吉原かゞみ(万治三年版)

讃嘲記時之大夫(寛文七年版)

吉原大雑書(延宝三年版)

諸国遊里好色由来記揃(元禄年間版)

好物訓蒙図彙(貞保三年版)

で、これ等の書は売笑史研究家の好資料であらう。