娼妓解放令

明治五年六月である、横浜に寄港した秘露の汽船マルヤルース号に乗り込んだ支那人二百三十名の秘露の鉱山に雇れる契約であったが、彼等は其の苦役を嫌ひ契約解除を時恰も同じ寄港中の英国船アイロンチユリー号に求めが為同船長は神奈川県駐在公使カットサン氏に此の旨を通じ同公使の意見を求めた。公使は右支那人を奴隷と看倣して之を万国が認めたる奴隷解放の趣意に基き全然解放すべきをマルヤルース号船長に勤告したが同船長は之を拒絶した、然るに之と関連して問題の起りたる場所が日本の港であつたから各国公使は等しく我国が之に対して如何なる処置をとるかを注目した。然しながら我国政府亦英国公使と同意見を以て之が解放をなすべきを右船長に勧告した。此時米国及仏国公使は之に反対の意見を持し我国に抗議を申込んだ為に問題は急々重大となり、事件の総を挙げて、之が露国皇帝の仲裁裁判に附すことになり、その結果は日本の処置人道に基けりとて我国の勝となつたのである。

此の裁判は然し敗訴に終つた秘露公使をして、日本の虐置人道に基きて支那人をば解放したが自国には娼妓と云ふ数多の女奴隷をして、人畜の行為に従事せしめて居るではないか、と云ふ、皮肉な逆襲と之が流布をなさしめた。之は我国にとつて一言弁解の余地なき手強きものであつた、此処に、時の政府は世界の疑惑を解くためにも娼妓の解放をなさねばならない破目に陥り、明治五年十月二日遂に彼の有名なる娼妓解放令は発せられたのである。今其の全文を掲ければ、

第一条 人身を売買致し又は年期を限り其の主人の存意に任せ虐使致し候は人倫に脊き有るまぢき事に付き古来制禁のところ従来年期奉公等種々の名目を以つて奉公住み致させ、其の実売買同様の所業に至り、以ての外の事に付き、自今厳禁さるべきこと。

第二条 農工商の諸業練習の為め弟子奉公致させ候儀は勝手に候得共年限満七ヶ年に過ぐべからざる事 但し双方和談を以て更に年期を延ばすは勝手たるべき事

第三条 平常の奉公人は一ヶ年宛たるべし、尤も奉公取り続き候者は証人相改むべき事

第四条 娼妓芸妓等年期奉公人一切開放致すべく右に就いての貸借訴訟総べて取上げず候事

此の布達発布後一週間即ち明治五年十月九日司法省より第二十二号をもつて左の如き布達があつた。

本月二日太政官第二百九十五号にて仰せ出され候次第に付き左の件々相心得べき事

第一条 人身を売買するは右来制禁の所年季奉公等種々の名目を以て其の実売買同様の所業に至るに付き娼妓芸妓等雇入の資本金は賍金と看做す、故に右より苦情を唱へる者は取糺しの上其の金の全額を取り揚ぐべき事、

第二条 同上の娼妓芸妓は人身の権利を失ふものにて牛馬に異ならず、人より牛馬に物の返済を求むる理なし。故に従来同上の娼妓芸妓へ貸す所の金銭並びに売掛滞金等は一切債るべからず

但し本月二日以来の分は此の限りにあらず

第三条 人の子女を金銭上より養女の名目に為し娼妓芸妓の所為をなさしむる者は其の実際上則はち人身売買につき従前よりも厳重の所置に及ぶへき事、

斯くして女奴隷、娼妓は自由の光を仰ぐべく解放の絶好機を与へられたのであるが事実に於て彼等は其の奴隷より脱することは出来なかつた、夫れは彼等の迷信に近い道徳観念に遇まられたものであるとは云へ、其の間に悪辣なる楼主の束縛の糸が操られたることを見逃してはならない。

其の後明治九年五月二十四日警視庁より発せられたる布達

明泊五年の娼妓解放条例に従つて娼妓を廃業せんとする時は其の自由を妨ぐる事を得ず、常に娼妓をして正業に就かしむることを注意すべし。

と云つた意味のものも亦彼等を自由の身とするに何等の効用をもなさなかつた。而して、此の布達には娼妓の年齢を十五歳以上とする事、娼妓は自宅に於ても、妓楼に於ても営業差しつかへなしと云ふ項次も含まれて居て娼妓の最も自由時代であつた。其の後娼妓の増加するに随つて、風俗を害することも甚しく内務省は遊廓に制限を設け、新に遊廓の設置を禁止した。尚娼妓の年齢を十六歳に引き上げた、時に明治二十五年五月で其の月の二十三日警視庁は庁令を以て娼妓待遇に関する規定を出し彼等を務めて正業に導くやうに奨励したのである。