明治五年の娼妓解放令は楼主側にとって確かに一大脅威であったに相違ない。然しながら彼等は多年娼妓を脅恐し籠絡 することを知つてゐた。而して明治九年及十五年の再三度に瓦る解放令も、何等娼妓を解放するの効を有せず徒に楼主の嘲笑を買ふにすぎなかつた。
然るに明治三十二年十一月遊廓に於ける破天荒なる出来事として楼主側の心膽を寒からしめた一大痛快事がある。即ち夫れは娼妓の自由廃業である。
「娼妓稼業の契約は自由に契約することを得れ共、善良なる風俗に反し公の秩序を紊る契約は無効とす。」
民法第九十条に準許し真先に自由廃業の訴訟に勝つたものは、名古屋遊廓に於ける娼妓佐藤ふでであつた。超て翌年五月藤原さとと云ふ同じ名古屋の娼妓が第二の自由廃業の訴訟に成功した。而して此の二人の自由廃業訴訟の裏面には外国宜教師モルフ氏の援助が与つて力あつたのである。而して氏は遂に反対者の兇刃に傷けられるに至つたが、其の熱心なる助力には何人も敬意を払ふべきであらう。
而して之れには又東京二六新聞社の応援あり同社は娼妓の信頼の的となり援助を乞ふもの引きもきらざる有様であつたと云ふ。
右二人の自由廃業は遂に全国の遊廓に及び、民法第九十条のすべて正業にあらざる契約は無効にして、娼妓は自由に廃業することが出来ると云ふ思想は一般に知らるところとなつた。斯くて同年九月三日には吉原の娼妓綾衣の廃業問題事件となり、二六新聞社員の後援を得て廃業の手続きをとつたが、時の浅草警察署長は廃業は自由なれ共手続は別であるから楼主の同意がなければならぬとて受理を拒んだ為、二六新聞社員は楼主の捺印を求めたが、楼主は之を拒み、茲に楼主と激論する同社員は暴漢のため傷けられるに至つた。然しながら勇敢なる同社員は遂に時の警視庁に対し、之が受理を迫り遂に警視庁をして前の庁令を改正せしめ、楼主が捺印を拒みたる時は其の理由を附し警察に差し出すべしといふことになり、茲に綫衣の自由廃業は訴訟の結果勝利となることが出来た。
斯くして自由廃業の先例出ずるや、明治三十三年以降自由廃業をなすもの続出し同年九月より十二月まで、僅かに四ヶ月間に六百十八人の自由廃業をなすもの出で、吉原の全滅を来すべしとて楼主の心胆を寒からしめた。
而して翌三十四年には三百二十七人、三十五年には二百九十八人、超えて四十二年には百十一人と云ふ毎年毎年夥しき自由廃業者続出し同年迄の累計二千五百五十九人を出せりと云ふ。
無智なる女性を籠絡して人権を蹂躙し、不幸なる無産者の弱味につけ入り其の膏血を絞らんとする悪楼主とそれを保護する公娼飼度は、自ら覚めたる者の手によつて葬られるのは当然であるとは云へ、人道の為め勇敢に戦ひをつゞけて来た救世軍と、之が最初の先働きを開きたる外人宜教師及公正なる与論を以て社会の信望に背かざりし二六新聞社のあつたことを忘れてはならない。
自由人に牢獄なし無告の娼妓と雖も、自ら覚めるとき其の鉄鎖を断ち自由の天地に跳り出ずることが出来るのである。廃娼運助もよし、然しながら娼妓も亦自ら覚め牢獄の暗きを出ずべきである。(娼妓の自由廃業に関しては廓清 自第十五巻十号至第十六巻〇号 に弁護士布施辰治氏の自由廃業の戦術なる論文に詳しく述べられてゐるからそれを参照されたい)