明治二十六年十二月三十一日である。此の日群馬県に於ける遊廊及娼妓は廃止され、爾来同県は我が国唯一の廃娼県たるの面目を持続してゐる。
群馬県に於ける娼妓は明治八年十一月三十一日、時の県令楫取素彦氏によって布達第百六十六号を以って公認されたもので、それまでは街道筋の宿屋等に飯盛女と称する売笑婦を抱へ売淫を行はしめてゐたものであった。然るに明治の維新後衛生問題の論ぜられるやうになって、如斯き者を黙許するのは社会衛生の立場から頗る危険なりとの意をもって公娼を許し花街病の防止を計らんとしたのである。
翌九年一月一日以来、酌婦舞妓を廃し公娼を以て性交機関となした、而て芸妓のみは、午後十二時以後の売芸及宿泊を禁止し営業のみは許された。
当時貸座敷推定地として許可された場所は次の十一ヶ所である。
武蔵国、深谷、本庄、(現在埼玉県)
上野国、玉村、新町、倉賀野、板鼻、安中、坂本、妙義、伊香保、一ノ宮、
然るに明治十二年六月三日時の県会議長宮埼有敬氏の速議により県会の議決を経て、公娼廃止運動の発端とも見るべき「貸座敷の業を改むるの」建議書が群馬県令楫取氏の下に呈出され、次いで翌十三年十二月三日県議三十五名の連署による廃娼請願書が提出された。
曰、倫理を壊り風俗を乱す、
曰、資産を失ひ生気を圧す、
曰、少年子弟をして前途の方向を誤らしむ、
曰、父子夫婦をして離散の禍を招かしむ、
其の他賊盜の念を起すなり、博奕の源を開くなり、凡そ人間百般の悪事皆、此娼妓貸座敷に根させるはなし、
とは、請願の理由とするとこるである。此の請願書に対し当局者は極めて重大視し各方面関係職員の意見を求め又常置委員(現在の県参事会員)に対し次の如き諮問をなしてゐる。
一、貸座敷営業並に娼妓稼の者向十五ヶ月を期し廃業可申事、
一、一郡内協議行届十五ヶ月内廃業施行可相成見込具状あらは聞届可申事、
一、廃業候上は別に手慣たる業体も無之活計差閊する者更に一廓を設け他営業者と混淆不申様営業可致事
明治十四年二月十六日
楫取森
右の通常置委員に相示し意見を諮問す、
そのいづれもの答申が一娼を力説し、さなくも数年後、時を見て廃止した方がいゝとの意見を具べてゐるのは面白い。
然るに常置委員の答申は諮問の主意にもとれりとて突返され其の後、十月十四日及十月十八日、と二回三回の諮問あり三回の答申とも「食案無之のみにて」と終つてゐるが、第三回の諮問に対する答申書はいさゝか参考になると思はれるから摘録して置かう
廃娼妓の方法に付熟考仕候処、御立案の第一項第二項には毫も間然する処無之、其第三項に至り一遊廓を置くの一活路を与ふるは施政上より其業を悪むも、其人を憐まざる可らざるの御主意とは存候得共、更に一廓を設けて営業するを許すとのみ令するも、其の場所を指定せす人民相対の協議に任するときは活路を与ふるの手段は却て転業の方向を迷わしむるの媒介たるに遇ぎす、然れども之を指示するものとせば其の兼寄郡村の苦情を防ぐに道なきを以て、到底其実行は無覚束儀と存候故に一層其の方法を進め、廃業後は本県の原籍人に限り事実生活に差閊へる者には、一つの就産場を置き、一ヶ年間之を扶営するものとし此期内にも労働其食を得るに足ると認むる者は速かに退場せしむるの規則を設け、兼て廃業を名として妄りに入場するの弊と救恤の反て怠惰を増長するの害とを矯むるに於ては、前法の如く名実相叶はざるの息も無之、真に救恤の御主意も売徹致すべくと愚按仕候、尤も其支費至難なりとの御論も可有之と雖も限りある該営業者中、右入場合格なる者の僅々たるは、事実明白なるに依り賦金幾分を殺き、之に充る者とせば格別六ヶ敷ことには有之間敷と存候、而して善後の策も併せて上陳可仕筈に候へ共差当り何等の考按も無之、因ては将来売淫を防ぐに何様の厳法御施行相成候共毛頭異存は無之に就き此段併て奉答仕候也。
明泊十四年十月十八日
常置委員
而して県議三十五名の請願に対しては、明治十五年一月二十四日付を以て右請願は一個人としての請願であるから県会の決議により建議書を差出すやうにとの解答をなし遂に同年三月十七日の県会建議となって現われ遊廓廃止の県令を見るに至った。
謹で按ずるに淫奔の風俗を壊乱するや素より茲に喋々するを須すと雖も中に就て最も世教に患害を来すものは、朗妓の酷たしき(甚しき?)に若くはなし請ふ其然る所以を弁明せん凡そ天下の事物に於て陽に之を禁ずるも尚ほ陰に之を犯す者あり況んや公然其患害物を明許し陥穽を設けて以て人々の之に沈没するに任すに於てをや、抑も我群馬県管下の如き娼妓貸座敷の最も多き隣県未だ其比を見ざるなり、故を以て患害の被むる所啻に一郡一村に止まらざるのみならず延て管下一般の人民に波及し其の底止(停止?)する所を知らざらむとす、今其二三を枚挙せん、曰、倫理を壊り風俗を乱す、曰資産を失ひ生業を墜す、曰、少年子弟をして前途の方向を誤らしむ、曰、父子夫婦をして離散の禍を招かしむ。其他、賊盜の念を起すなり、博奕の源を開くなり、凡そ人間百般の悪事皆此娼妓貸座敷に根せざるはなし、其れ然り、故に娼妓賦金の如き之を地方税目中に列せず特に法度外のものと為すは、賤醜の業因より貴重なる地方税中に置くに忍びざるを以てなり、多年前陳の事件に於て見る所あり一片の杞憂之を黙々に附する能はず此段県会の決議を以て建議候也。
明治十五年三月十七日 群馬県会議長 宮崎有敬
右の建議により愈々貸座敷は廃止されることになった。即ち同四月十日、各課長の意見を諮問し衆議を決し六ヶ年の裕予期間を与へ同月十四日付布達を以て、明治二十一年六月限り廃止されることになった。
管下貸座敷営業及娼妓稼之儀今般詮議之次第も有之候に付、来る明治二十一年六月限り廃止候条此旨布達候事
但し貸座敷所在外の地は勿論従来所在地と雖も自今新に貸座敷開店は不相成候事
明治十五年四月十四日 群馬県令 楫取素彦
当時世論沸騰し甲論乙駁県下十一ケ所の遊廓貸座敷営業者は陳情運動に策動し奔命にたったが、県会議員が如何に強く廃娼論を主張したるかは、これ等の世論を排し竟に初期の成果を納めたるを見ても知るべくこれが背後に新島襄氏等クリスチヤン一員の力与って大なるを忘れてはならぬ。
以上述べたるところによりともかくも県下一般の貸座敷は、明治二十一年六月限り廃止せられることになって、廃娼運動の効を収めたることは知れるであらう。
然るにこれに先だち伊香保に於ける廃娼は温泉宿営業者の希望に、種々運動が試みられ遂に明治十六年六月を以て廃止さるに至った。
群馬県に於ける第一期廃娼運動により、効を奏したる廃娼論者は明治十七年三月三十日、楫取県令、元老院議官に任ぜられ、佐藤与三氏後を承けて県令になるに及んであと一か月によって廃娼といふ明治二十一年五月突如廃止延期の県令が発布せられて愕然とせざるを得なかった、かくて再び世論沸騰し廃娼論者は猛烈なる運動をなしたが遂に容れられす、県会は新に娼妓鑑札を下附することを議決しこの旨県令に対し請願した。而てこの建議案は議員二十三名の連署にかゝり当日の出席議員は三十八名で採決の結果は可とするもの二十九名否とするもの九名でこの案は廃娼論者少き時を見計り提出されたのであるといふ。
然しながら、この延期令及新規鑑札下付の件も更に翌二十二年十一月二十六日の県会に於て娼妓貸座敷廃止を議決せられ二十八日付提出せられたる娼妓及貸座敷営業廃止の建議書によつて葬られるべく群馬県令第二十一号布達となつて現われた。
明治二十一年五月群馬県令第三十二号を以て貸座敷営業及娼妓稼廃止の議は当分の内延期すべき旨布令置候処詮議の次第有之左の場所は本年九月三十日限り廃止す。
但し貸座敷営業者の内他の営業に就くこと能はざる事情あるものにして貸座敷所在地に転居継続営業を為さんとするものに限り特に免許を与ふることあるべし。
一、緑野郡新町
一、碓氷郡安中町
一、北甘楽郡妙義町
明治二十三年三月三十一日 群馬県知事 佐藤与三
当時世論存廃両論あり、県令佐藤氏は急激に全廓を廃止することの営業者に与ふる困惑と、廃止後の弊害を慮り漸進的主義をとつたものであらうが、廃止論者は之に対し遂に不信任案を唱へ辞職を勧告した。
而して二十四年四月九日、同県令は非職となり中村元雄氏転任し、遂に其の年九月十二日県令第一二十九号を以て明治二十六年十二月三十一日限り貸座敷廃止の旨発布せられた、
明治二十一年五月二十六日県令第三十二号は来る明治二十六年十二月三十一日限り之を廃す
明治二十四年九月十二日 群馬県知事 中村元雄
如斯くしてさしも迂曲をきはめたる同県の公娼廃止運動は、最後の効を収め貸座敷及娼妓は明治二十六年十二月三十一日限り廃止されることゝなつた、其後明治三十一年貸座敷指定の県令及四十一年前橋及高崎両市会の公娼設置決議等あり。存娼運動も時々擡頭してはゐるが遂に今日の如く、廃娼県として全国にその名を没することなきを得てゐるのはよろこばしい。