世の潤沢に連れて廓中の大造、楼台の結構、閨中の美麗なること言語に述べ難し、先づ座敷中襖、唐紙等金銀の彩色を盡し、床、違棚の物好き或は紫檀、黒檀、タガヤサン等の唐木を用ひ、書斎の軸物、香花の器物、和漢の珍器を集め、衣類、夜具、布団をも金襴、鈍子、天鵞絨又は唐織、襦子、羅沙などを用ひ髮のものは玳瑁、亀甲、珊瑚、金銀の細工を盡し、其の華麗なること古今例なき容体なり。とて世事見聞録の著者を驚かしめたる廓の生活も一歩其の内面に至って之を観察するとき吾人をして思はや戦慄せしむるものがある。
日本橋の葭町にあった吉原遊廓が明暦二年に現在の地に移されて一層大きな曲輪となってから、二百六十年惨虐な楼主の鞭の下に酷遇の杖に撥かれながら、飢鬼の如き色奴の犠牲に供され、焦熱地獄の窘しみに悶揉しながら、花の春を無残に踏散らされた遊女の悲しき亡骸は、古い吉原が新吉原となった当時の明暦年間から、三の輪土堤下の淨閑寺と、日本堤東端の土塀下に建立してある道晢の寺と呼ばれた西方寺と、安政の頃から更に一寺を増して田甫の大音寺と、斯くの如くに吉原の西と東と南の三ヶ所に投げ込みにせられた。州崎の遊廓は明治二十年の春本郷根津から現在の地に移されてより、深川猿江の重観寺に葬むられることゝなり、新宿の妓楼では百五六十年前来、新宿北町の成覚寺を娼妓の合葬寺と定められてゐる。なほ千住の遊廓では古くから大千住の勝恵寺が投げ込み寺とせられ、之等の投込み寺には果敢なく花の春を強者の鞭に倒れた遊女の髑髏が、卵塔場の土壌の下に幾百幾万となく投げ込まれてゐるのである。ドン底よりの著者葛岡敏氏は之等投げ込み寺の卵塔の下に投げ込まれた遊女の数を大まかに見積つて
三の輪浄閑寺 一万人(開基以降二百七十年間)
日本堤西方寺七千人(同二百六十年間)
田甫の大音寺 一千人(安政以来)
新宿の成覚寺 二千二百人(明和九年以降)
としてゐるが、或はもつと多数の遊女の屍が埋められてゐるかも知れぬ。
之等哀れむべき遊女の骨を埋めた卵塔場の中でも、最も悲惨なのは三の輪浄閑寺の本堂裏にある丈余の墓碑の下に投げ込まれたる無縁の霊であらう。これは碑面の文字通りに有名たる「新吉原無縁の墓」で、安政二年十月二日彼の関東地方に於ける大地震に惨死せる遊女の墓であるが、葛岡氏の記すところに従へば、
吉原の曲輪では常に火災の場合に備へる為めに、妓楼の床下に暗渠に似たる穴蔵を設けていざといふ時には此の穴蔵に家財とともに、遊女を無理無体に押し込み逃走を防いだが、土を崩し家を倒して厭足らぬ地震の余勢は煽々と火の子をふらし軒から軒へ燃え盛る火は遂に廓とともに穴蔵の中に押込んだ遊女をも焼き死したのである。而て此の地震に恁かる惨らしき死に任せた遊女の数は実に一千余人の多きに上り、斯く淨閑寺の外西方寺、大音寺の三ヶ所に夫々埋葬せられ、淨閑寺に之等惨死者の死骸を運ぶだけでも五百二十六人の人夫を要したといふ。其の当時月曇り雨暗き夜は寂しい卵塔場の此の新しい土墳から鬼哭愀々と迷叫のきこえ人の毛孔を寒からしめたといふことである。
生きて色奴の犠牲に供せられ、遂には惨虐の楼主のため焦熱地獄に投げ入れられた彼等宴れなる遊女の生涯、北?(亡邑)一片の煙と果てても万斛の恨はいつまでも残されてゐるであらう。
大小幾つかの類焼の度毎に、吉原の巷からはかうした無惨な死骸を之等投込み寺に運んでゐることであらうが、今之が述べる材料を持たないのを遺憾とする。
然しながら、無縁仏として片づけられた跡であれ、之等諸寺を訪ねるとき卵塔場の総てが一つの残虐なる生活の下にあえいだ遊女の悲惨なる迹を伝えて何人も肌に粟を浮べずにはゐられないであらう。
葛岡氏によれば淨閑寺に残存せる合葬碑は此の外に安政二年から明治元年までの某楼娼妓五名を葬れる一基、明治五年から同二十一年までの合葬八名の墓一基、明治十八年から三十五年までの八名を合葬せる八名の外(以上の諸基は比較的古い年代の墓だとのことである。)明治三十四年までに、娼妓の合葬碑として人の目をひいたものは二十五基、それに大正七年の分を合せて凡てで二十六基にすぎぬといふ、而て安政以前の分は一基の残礎すらないのである。之等二十六基中に於て殊更人の心を動かせるものは、明治三十六年八月二十三日の朝、角海老楼の若紫のそれであらう。悲劇の跡を碑面の文字によつて述れば彼女はあす一日で満期(六年)といふときに、朋輩の馴染客に買はれて遂に無理心中の代理をつとめさせられたので、此の哀れむ可き犠牲者の為めには常に我慾の外なき楼主も深く同情し、痛惜の余り一基の墓を樹て今も墓前に香花を手向けてゐるさうである。
かうした一万人からの亡き女のうちには悲の為身を捨てても未来は夫婦と思ひつめた合意の自殺もなくてはならぬ、此の点につきてドン底の著者の調べたところを見るに(勿論推算にすぎないが)
天明七年四月から大正七年三月まで、凡そ百六十年間に七十二組の心中者を数へてゐる。
即ち天明七年四月二十三日吉原遊女屋、大和屋抱立花と遊客某の心中を初めに
寛政年間九組
享和年間四組
文化年間八組
文政年間七組
天保年間三組
嘉永年間五組
安政年間四組
慶応年間一組
明治年間二十八組
大正七年まで計三組
計七十二組 (以上三の輪浄閑寺のみ)
遊女にも恋はある、心からなる誠を捧げて惜しくも花の春を散らせた彼女等と虐待の鞭下に弄殺された遊女と何れが幸か、不幸かは知らぬが、悲しくも亦哀れを誘はれるであらう。
土手下の西行寺は明治初年来吉原遊廓との仏事の縁が絶えてるるが、その昔遊女を葬った墓地跡は今もその名を線香畑と称ばれて、江戸末期までは綿香の煙が何時も絶えなかったといふ。墓地跡には「三界万霊」と刻んだ四尺位の無縁塔が建てられてゐるさうであるが、編者は未だ実地にこれを見てるない、此の寺には安政二年の震火災には焦熟地獄の苦しみに惨死せる遊女が葬られてあって、大正十年頃同墓地跡に水道工事を起したとき叺に十八俵からの白骨が発き出された、おそらく場所柄(田町一丁目八十二番地)遊女の亡骸であらうとは当時の人の推断であった。此の寺には之等無縁塔の外には二代万治高尾の墓が只一基あるのみであるが、面白いことには人ならぬ猫を葬った墓が一基、今も尚香花を手向けられてるる即ち有名な遊女薄雲太夫寵愛の三毛猫で、余り太夫が此の猫を愛しすぎた為、楼主は遊女が猫に魅せられたと云って斬り捨てたのを悲しみ、太夫が厚く葬ったのである。幕末に至る二百年畜生道の世界にふさはしく、死後多数の遊女は投け込み寺の土壌の下に三界無縁の霊としてありし日を見かへる人もなきに、猫のみは斯く手厚き香花を手向けられたといふのも亦ありさうなことであるが、猫にさへ劣りて生涯を奴隷の境遇に果て、死後弔ふ者もなき遊女の身こそ哀むべきである。
次に田甫の大音寺であるが、此の寺はその昔、金碧燦爛として宏大な伽藍は四圍を払ってゐたさうであるが、近年著く寺運衰頽してしまつてるる、此処にも多数の遊女の死屍が投げ込まれてあるが、山門の傍には「吉原町六百八十五人の霊」と刻まれた大石塔があり、安政二年未己十月二日大音寺の文字をたどれば、これも亦安政の大地震に惨死せる遊女の墓なるや一目瞭然としてわかるであらう。
新宿の成覚寺も亦、新宿に妓楼の開かれて以来二千数百の遊女の枯骨が投げ込まれてゐる。此の寺には「千供合埋碑―旅籠屋中万延元年十月建之施主山口栄七」なる遊女の合葬碑と明和九年以降、明治二十六年三月に至る「内藤新宿娼妓招魂碑―内藤新宿貸座敷五十九軒」なる碑の外には、遊女一人々々の墓は僅かに二三基のみであるといふ。
爛燈の影には全盛を唄はれたる遊女も、一朝仇し野の露ときゆれば一塊の骸と化し何人も見かへる者もない、落花無常とは云へ、人間としての最後をかくも一個の物質としてのみしか取扱ふことのない楼主の心こそ呪ふべきである。
明治四十三年頃であったと思ふ当時から「人間一人の最後の典礼ではないか人間らしく葬ってやらねばなるまい」と注意されるまでは、拾文女郎などと呼ばれた等級の低い遊女は、米俵に屍をくるんでその儘埋葬したといふ。爾後、やっと駕籠で運ぶやうになったが、それも夜半不浄口から人夫をして運び出させ、妓夫一人妓女一人位がつきそうやうになったときく。然しながら遊女一人が死んだといって、せめて送葬の当日一日を休業した妓楼は未だこれを知らない。
死後の如き、遺骨引取人がなきときは、依然投げ込み寺に枯骨を取捨てられ、其の際寺僧の手向る香花をもって個人的回向を打ちきるので、初七日も三十五日もありはしない、迹は法界万霊無縁の亡者となるのである。
「何の人生ぞこゝにも人の一生がある。」