新吉原と火災

吉原二百五十年の歴史、酷遇の鞭にうち虐げられ、惨虐なる楼主の搾取にまかせた娼妓の生活、血涙の跡を永劫の恨深を卯塔場にもとめ一節を草した編者は、更にその補稿の意味をもってここに新吉原と火災に就て少しく文献をたづねて惨劇の迹を記して見たいと思ふ。

吉原の妓楼に於ける穴蔵については既に述べたからここではその重復をさける、天保六年の火災につき江戸繁昌記の記すとこるを見るに、

天保二年の正月二十五日夜雲淡く、風静なり。一刻未だ千金なるに至らざるに、天上五街已に三分の赤色を着け、解語の花自然に新なるを覚ゆ(中略)諺に曰ふ、火に遭へば暴に富むとこの地久しく災なし。或は有も却てよからむ。庶くは火を経ば復熱閙たらむと。言未畢らざるに折声急に飛び叫び報ず「角町火起る」と。吶喊海を翻へし、鐘鼓天を驚ろかす。胡蝶、遙に愕き、海棠の眼安んじ?せむ(中略)四散五走七転八倒(中略)想ひ見る三千の妃嬪、阿房の烟を逃れ、数百の妾膝五氏の閣より放たれしも。兵法に曰く、始めは処女の如く後には脱兎の如しと、聞く始め庄司氏の経営せる法八陣に倣へりと。五街四達十字九通往きて復るが如く、入りて出ずるが如きを覚ゆ。一門北に開き溝三方にめぐる。板橋どぶにつるして不具に備ふ。則ち吊橋の火にはねらるゝや、妓等惑ひ、どぶに向ひて歩を誤り、桃花流れ蓮華泥を杖く。姉は妹を叫び楼婆火を焔んでかむろを導く。所謂一炬にして焦土となる。憐むべし瞬息の間に百千の紅楼一掃して灰に帰す。

火災の惨状おして知るべく録して遺憾なしの全廓を焼土と化して余すことなき有様で、しかもその度に多くの娼妓は出ずに門少く囲らすに溝渠あり。逡巡焚死するものその数を知らず、宛然焦熱地獄として何者にも及ぶべくもない。

今吉原細見奥書及武江年表によりその全焼した火災の年次を掲ぐれば次表の如くである。

年次 火元 事故 大正元年より追算 仮宅
延宝四年十一月七日暮六ッ半 西河岸(江戸町二丁目)梅村市兵衛 初めて全焼 二百三十七年前 三谷、箕輪
明和五年四月六日曉八ッ時 江戸町四ッ目屋 全焼 百四十五年前
前より九十三年後
並木町、全戸町、橋場、山谷町、新鳥越町
明和八年四月二十三日 揚屋町梅屋伊兵衛 百四十二年前
同四年後
今戸町、橋場辺、両国辺
安永元年二月二十九日 目黒行人坂 全焼 百四十一年前
同一年後
今戸町、橋場町、山宿町、両国深川、八幡前、佃丁
天明叫年四月十六日丑下刻 水道尻水戸屋 百二十八年前
同十三年後
並木町、駒形町、黒船町、白両国回向院前
天明七年十一月九日
曉卯刻六ッ時
吉原角町 百二十四年前
同四年後
並木町、源川新地、八幡前、中州富永町、高輪
寛政六年四月二日亥半刻 江戸町二丁目丁字屋 百十九年前
同九年後
田町、聖天町、山宿町、瓦町
寛政十一年二月二十九日 夜九つ時 竜泉寺村より京町一丁目岡本屋へ 百十四年前
同五年後
田町、聖天町、山の宿町、瓦町、新鳥越町、山谷町、源川横山町

(武江年表二十二年二月二十三日亥半刻とあり)

文化九年十一月二十一日夜五つ時 善七小屋より出火 百一年前
同十三年後
田町、聖天町、山宿町、瓦町、山谷町、深川
文化十三年五月三日申刻 京町一丁目海老屋 九十七年前
同四年後
田町、聖天町、山谷町、瓦町、深川
文政七年四月三日暮六つ時 京町二丁目林屋 八十九年前
同八年後
花川戸町、山ノ宿町、瓦町、深川だだ新地、仲町表
天保六年正月二十五日夜八つ時 角町堺屋 七十八年前
同十一年後
花川戸町、聖天町、山の宿町、東仲町、田原町
天保八年十月十九日八つ時 伏見屋十字屋 七十六年前
同二年後
花川戸町、山の宿町、深川八幡前

(武江年表に曉六つ時とあり)

弘化三年十二月五日暮六つ時 京町二丁目桂屋 六十七年前
同九年後
花川戸町、山の宿町、聖天町、
瓦町、山川町、田町、新鳥越町、
山谷町、深川五ヶ所、本所二ヶ所、
安政二年十月二日夜四つ時 大地震の時 五十八年前
同九年後
 
万延三年九月二十九日夜五つ時 江戸町二丁目河岸紀の字屋 五十三年前
同五年後
 

明治以後、全焼の厄に遭ひたるは明治四十四年四月九日午後一時廓内より出火、それから大正十二年九月一日の大震火災の二回のみである。全焼の度に吉原三千の美妓は、阿鼻叫喚の巷に狂奔したであらうし、その度に幾多うら若き女性を生がら焦熱地獄の苦しみを与へ、剰え花の生命を、惜しくも無惨に散らせたことであらう。吾人は今更ながら惨虐な迹を思ひて慄然とせざせざるを得ない。