売春婦の異称に関する研究

我が国売春婦の起源は研究者間にも決して一致して居ない。或る者はこれを神代に発せりと云ひ、或る者は三韓交通に始まれりと称へ、又或る者は聖武天皇の時代との説を樹て、或は白河天皇の時と称し、又或る者は安徳天皇の末葉に始まったと説く。而しながら今編者はこれを急に明らかにするの信ずべぎ材料を有しないので、これが起源に就いてはいま述べず、史家の説くまゝにこれを拾ひ、それに著者の知る範囲内に於ける売春婦の地方的異称を加へ、こゝに我が国売春婦の異名をならべて見やうと思ふ。従ってそのならべかたについても之を時代的に順序よく配列する事は出来ないが、多少の考証を加へる為出来るだけ時代との関係をつけて列記することにする。

先づ神代に発せりとの説をなすものより之を窺ふに

巫娼と売笑

巫娼は宗教的売笑婦で、播陽名跡史によれば揖保郡室津町の鎮守加茂明神が、此の地に降臨の際遊女を召連れられたので、同時にここが日本の女肆の初まりであると記されてゐる。又摂津の住吉神社に近き乳守の遊廊では、此処こそ神宮皇后の勅許以来の日本最初の地なりとの主張がされてゐる。加茂神の生母は玉依媛で、山城の瀬見の小川の辺り住んでゐたが、或る日小川へ遊びに行くと上流から一本の箭が流れて来た。この箭の霊感によって妊んだのが加茂神であると云ふ。玉依媛は霊憑媛で、巫娼に外ならぬ、母が巫娼で父がわからぬ加茂神が降臨の際遊女をつれたといふ事は縁のない話ではない。而て此の神の祭礼には遊女が参加して神いさめをすると云ふ事である。(中山太郎売笑三千年史)ともあれ巫娼が売笑をなしたといふ事は、いづれの国の売笑史に見るも首肯されることである。

じやれ女

じやれ女は戯女(ぢゃれめ)で、同時に猿女と称せられる部族の名称であると云ふ。猿女族は猿田彦から出で、猿田彦の妻は佃女(うづめ)で、天岩戸の前で裸踊りをした女神である。後世その子孫が遊女に類した行為をしたとも云はれてゐるが、必ずしもこぢつけでもないらしい。現在でも遊女の別名として左の如きものがある。

おしやらく

洒落から来たものと思はれる。現在南部地方にはこの称が残つてゐる。

おじやれ

お戯(じゃ)れの義らしい。

郎女(いらつめ)

万葉集に現れた郎女は人妻であり上代の郎女は未婚者にしてこの名を負ふたものである。必ずしも郎女が売笑婦とは考へられぬが安藤政直代は郎女はイラフー(弄)で、遊女に類似すると云つてゐるさうである。

以上述べたところ必すしも売春婦の異様といふわけではないが売笑史考の参考ともなるべきものと考へ此処に摘録した

一夜妻

後世の一夜妻は売春婦の別称であるが万葉集に現れた一夜妻「吾が門(かき)に千鳥(ちどり)しば啼(な)く起きよ起きよ、吾が一夜妻に知らあな」は一段と古い時代に属し、巫女の類で売笑を兼ねたものであるといふ。

采女(うねめ)

本著第一章第一節を参照、

純粋たる売笑婦が現れたのは奈良朝時代である。

遊行婦(ゆうぎゃうふ)

万葉集には数ヶ所、扶桑略記には一ヶ所遊行婦の名が出てゐる。

遊行女婦

遊行婦のことで喜田貞吉博士によれば一定の居所なく遊行浮浪する婦人の義であると云つてゐるが(民族と歴史―第四巻第四号)万葉集などに現れる遊行女婦は、漂泊浮浪の輩ではなかつたやうである。

佐夫流子(さぶるこ)

本著第一章第一節参照

桂女(かつらめ)

本著第一章第一節参照。

傀儡女(くらしめ)

本著第一章第一節参照

販婦(つさめ)

本著第一章第一節参照

白拍子(しらびょうし)

本著第一章第二節参照

はいち

大阪では巫女で娼婦を兼ねたものを斯く呼んだといふ。(本居内遠賎者考)といち。はいち、は女子相淫であるといふ。

ひさく

越後湯谷温泉では土娼をひさくと称んでゐた。これは極く古い頃の湯女の私称を残したものと云はれる。

鎌倉時代には白拍子、夜発、販婦の外に

夜発(やほち)

といふ売春婦があつた。和名抄には遊女は昼稼ぎ、夜発は夜働いたと区別して述べてある。

すあい

女郎

女郎は上臈で、売笑婦が安徳天皇の末葉に始まつたと説をなすものはこゝに論点を置いてゐる。幕末より明治へかけての人で高安澄信といふ人はその筆記に各地に於ける遊女の異称を説明してゐるが、これによれば「抑、遊女の根源を尋ぬるに元暦元年源義経奢る平家を滅さんとて、長門国壇の浦に於て合戦する。平家の一門是にて勝負を決せんとす。火花を散らして戦ふと雖も叶はずして遂に一門残らず海に入る。然るに、臆病なる女共は入れず長門国赤間ヶ関に止まつて日を送ると雖、世渡る業なければ詮方なく難儀に及ぶ。依レ之不得二止事一往来の人を引止め、一夜身を売る事とはなれり。此の女数多ある中には貴人の息女もあり局上臈もあり、皆被衣を着て夕暮より辻へ出ずる君もあつて、其の名を辻君とは 云ふなり。云々」(民族と歴史第四巻第四号)此の説につきては本著第一章第二節にも一寸述べて置いたから参照されたい。

うかれめ

遊行女婦と書いてうかれめと読ませてゐるが次の如きもある。

浮(うか)れ女 漂(うかれ)女(め)

食売女(しょくばいじょ)

本著第一章第五節参照

江戸時代になつては実に数々の名前があり、その中には現在も地方によつて残存する名称もあるから以下それ等の異称を列記してそれに多少の考証を加へる。

辻君(つじぎみ)

露君(ろくん)

辻君の異名である。

惣嫁(そうか)

辻君の類でその何処より名の来たかは定かでない、隻狐の意なりとも云はれるが明かでない。(夜鷹の項参照)

茶汲(ちゃくみ)

茶汳女のこと、で幕末には京都の西壬生村に地蔵堂があり、その後ろに茶店があつて旅人が床几に腰をかけて休むと前垂の女が出て来て茶を汳むので、此の女は笑を売つたので有名であつたとのことである。

ぼん

古くより関西地方に称ばれた名称で陰売宿をぼん屋と云ふ。

湯女

本著第一章第七節第四項参照

民族と歴史(第四巻、第四号二二六頁)に所載せられたる高安翁の筆記によれば、遊女の事なり是は但馬其の他諸国に湯治数ヶ所あり。此処へ旅人入湯して逗留の時女郎を買ふ事あり、湯島の女なる故湯女と書くと見えたりとあり。

比丘尼 比丘

腰元出

大家の腰元、下女の紛飾をして辻に出たから此の名を負ふたのである。と、

飯盛(めしもり)

道中筋の宿屋に使はれる下女で淫売専門、であるが麦面は客の給仕をする稼業である。との語源は客が飯を食ふとき給仕したので出きたのである。

綿摘(わたつみ)

遊女(公娼)の居ない地方つまり在方の女で、京都では

茶摘(ちゃつみ)

といふ。

山猫(やまねこ)

京都東山に円山といふところがある。此処に双林、天阿弥、源阿弥、深阿弥、弥阿弥、と云ふ貸席があった。こゝへ諸寺諸山の坊主が内蜜に遊びに来る時、下河原から配膳の女が出て取持ちその夜坊主と床入りするのであるが、僧侶には女淫の戒があるので猫(寝子)を抱いて眠るといふのである。なほ円寺の猫であるから山猫といふのである。と(民族と歴史、第四巻第四号、二二七頁)

白(しら)ゆもじ

九州地方でも云はれてゐる、これは往時はなかったらしい。往来の人の袖をひき、ぼんやへ行く売女なり白ゆもじと云へば三十五六歳より後の女にて素人と云ふ心なり、今は若き女多く出る。是はもと大阪より初りたるなり、今は諸国にもある由。

白幕は弓矢鉄砲通らねど

抜身でかようじんばりの武士

(高安澄信翁の筆記)

の歌は幕末頃の武士が一夜の春を買ふため通ったのを謠ったものらしい。

夜鷹(よたか)

夜発と云った遊女を後世夜鷹といふやうになったのであると。和名類聚抄に「怪鵺与多加昼伏夜行鳴以為怪鳥者也」とあり一名隻狐といふ也。不詳の化鳥なり扨叉同抄に遊と云に「昼遊行請二之遊女一待ツ夜而発二其淫奔一者請二之夜発一云々」今井良●(いまいよしつぐ)、荏原郡戸越村に住めける頃語りけらく、誰彼(たそがれ)の頃、木立の繁みより立出る鳥あり。道路にのけざまに臥し居けるを人行きかゝりければ立て二三丈も置て、又始の如く臥す処とならん。形は夕暮なれば定かに見えねど、梟耳木兎にやあらんと、思ふ様なりと語れり是夜鷹なるべし、道路に臥す故に夜鷹と名付けしにやあらんと。

宿場女郎

道中街道の駅の宿屋にかゝえられた売女。

けこる

蹴こるばし

鳥追(とりをい)

あみがさを被り、三味をかゝえて門付をして歩いたが、春を鬻いで世渡りをする売笑婦の一種であった。

竈(かまど)はらい

西鶴の一代記中にも見るが、売笑婦の異称で、語源はわからない。

売女(ばいじょ)

船饅頭

船娼、水辺(港)に船頭相手に淫を鬻いだ女。

風呂屋女(ふろやおんな)

湯女のことである。

引張り

辻君の一種で行人の袖を引いたからこの名を負ふたものらしい。

以上列記するところのものは江戸時代の所謂、隠売女、則ち現在いふところの私娼である。

淫売(いんばい) 淫売女(いんばいおんな)

淫売婦(いんばいふ) 密売婦(みつばいふ)

密娼(みっしょう) 私娼(ししょう)

などは現代的な名称であらう。未だ此の外にも様々な異称がある。例へば高安澄信氏の筆記の一節に掲げられたもので諸国の売笑婦の異名が裁せられてゐるが私娼に属すべきものか又は公娼に属したものかを明記することは出来ない。

あんにや

伊勢、古市

走り鐘

志摩鳥羽

せんかり

伊豆、下田

九年母

松崎地方

しやうかう

丹後地方

べざい

信州、上田

冷水

越後地方

うに身

同 あほの子

かご廻

長、門荻

きな

肥後地方

手たよ

下関

はいはち

長崎

帳箱

信州、松本

化鳥

加賀地方

もか

尾州、名古屋

げんほ

津軽

おしやらヽ

南部

おつくら

上州妙義

干飄

敦賀

ヽり出し

岡山

小田原 やどり

遠州、浜松

おじやれ

大津

根餅

奥州、出羽

船饅頭

薩摩地方

あひる

仙台

堤重

出雲地方

蹴伝

佐渡(註、蹴転ではなからうか)

摺鉢

丹波地方

薬鑵

松前

尻まい

此の外に著者の見聞したものでは

あねま

北海道地方

地獄

くさもち

福岡

おたり

ざるそば

伊豆、下田

ころび

白首

十銭子

仙台。

ごげ(後家)

北海道(後家の名称には、いろヽな附会された説があるが、その中で、昔ぞくヽと移民が入り込んで来ては気候風土に馴れぬため過激な労働に服する男は片端から死んで行き、後に残った妻や娘は衣食 に窮して春を鬻いだのでこの名を負うたといふが、聞いただけでも痛ましい気がする)

ホワイトネツク(白首)

鯡ごろ

がの字

(此の語源については労働者達、所謂出面が女と約束するとき一文銭の藁縄へ通したのを娼家の窓(がんと訛る)から投げるとそれが畳に落ちて雁のやうになるからだと云ふ説がある。こぢつけではあるが、土習を知る上には而白い)

五升

(近江の日野町では古く私娼を五升と云った。米五升で春を鬻いだからである。十銭や三銭三厘の類もみな拠て来るところは同一語源かと思はれる。)

不見転

これは芸者などに対して云はれる。

共同便所

岡山其の他(主として学生間に用ひられる。)

やとな

ちよろ

道後、尾道木江港地方

などと云ふのがある。

次に公娼に属すものを調べるに、

遊女

傾城

傾城とは遊女中でも特別容姿よき美人を指した。古語に美人は傾国と云ふ美人故に国を失ふ者唐土我朝にも其例多くあり云々と、伊達の殿様に斬って捨てられた傾城高尾は意地と張りとを売物にした当時の遊女気骨を最も如実に語るものであらう。

太夫

太夫の語源は泰始皇帝御狩の節俄に大雨に遭はれ、とある松の下に立ち寄らせ給ふ時、此の松俄に大木となり枝葉茂りて雨を凌ぐことが出来たので此のに松太夫の位を与へられた。そこで傾城は下駄をはき傘をさしかけなどするは是皆雨のよそをいをなすもので、此の故事に依り傾城を太夫といふのであると。

格子女郎

端女郎

初見世女郎

百蔵女郎

喧純女郎

鉄砲女郎

散茶女郎

梅茶女郎

茶女郎

などは明暦年間のものであり、天保時代では散茶女郎から分れた。

呼出

来且三

月廻

仕廻

梅茶女郎から分れた

座敷持

部屋持

切見世女郎

などがある。而て、前の太夫、端女郎、格子女郎、局女郎は廃絶した。

娼妓

娼婦 娼女(これは遠く上代にあったものかも知れぬ)

などは極めて最近のものらしく、

売春婦

売笑婦

は公娼に限られたわけではなく、語源も翻訳語かとも思はれるが定かではない。

おやま

紅君

は古くから称ばれ、関西方面には今も残って居る。

針仕兼(はりしかね)

は鳥羽の名物だつた

姫(ひめ)

は岡山で聞いた公娼の異称である。

妓生(きいせん)

は朝鮮娼婦

尾類(づゆ)

は玩球の売笑婦

詰尾類(つめづり)

は独専された琉球の売笑婦

フェーズラー

はいずり

は同じく農村の売笑婦である。

なほ本居内遠翁の賤者考に載せられた細民職業別の中に売笑婦とも見るべきものを抜抄するに

遊女※、遊行女※、婦芸師 傾城夜発※、女郎※、立君、辻君※、船娼、太夫※、新造、禿、 飯盛女※、茶汲女、出女、 白拍子※、舞子、踊子、 勧進比丘尼※、巫女※、お寮

※の印を附したるものは既に掲けられたものである。同書に載せられたもので

青称(忘八、女街、幇間、仲居、引船、まはし男、軽子、花車鎗、女髪給、芸者、風呂屋、密会宿、)

は売笑の風を輔けたもので、鎌倉時代の長者は遊女の中でもその首となるものゝ称であり(民族と歴史第七巻第一〇号四頁、三四頁)

「遊君ども我おとらじと御しやくに参り花やかにいさみける中に、うちしほれたるちやう一人有、中将御覧じてあれなる 上臈うちしほれたるもけ(殊)なるとのたまへば、長者申様、かゝる御祝の御座舖にて申すべきには候はねども、御尋ね候へば申也。かうますとて海人の姉がさぶらひしが、さもきこへし長にて候へしが、こぞの秋都より筑紫へ通るとて若山伏の御通り候へしに云々。扨御供のさぶらひ共申しけるは、此中将殿は都にも人に心とめ給はぬゆへにこそ、心つくしの中将とは申すにかうますはいかはど美しければかやうに思召されけるぞやと云ければ、或人申けるは九国に名を得たる長也。大名公家の心をかけ給へどもさうなく出あはせ給はず。此の君を見初め申て十八と申にきえ給ふとかたりける。

大弐殿聞給ひてさもあらん、いもうと二三百人の長の中にすぐれて見え申との給ふ云々。さかもりなかばに長者申様亀若御前が母のさつしやうなるに、一番舞ひ給へ云々、亀若その日の装束に梅の匂ひのうす絹に云々。年は十六なり。誠にやさしき長なり。(中略)

扨ても中将、長者の娘せんまつを召てけふもとく参るべけれ共、都へいそぎ候ほどになごりおしく候へ共とて染物積みたる唐櫃一つたびけり。(下略)

この一文によつて長者、長者の娘、長の区別がつくであらう。即ち長は長者の差配下にある遊女で長者の娘とは区別さる べきではなからうか、ともあれ当時遊女を

長者、長

などゝ呼んだものらしい。沢田順次郎氏は「長者とは楼主、(遊女宿の主人)である」と云ってゐる

次に遊女を抱へる娼家の名称については

娼舘 娼楼

娼家 青楼

遊女屋 娼楼

女郎屋 傾城屋

ぽん屋 密会宿

湯女風呂 淫売宿

置屋

どゝよび遊廓を

色町 色里

女肆 遊里

廓 岡場所

と称し遊客を

遊子 漂客

興種 夕顔さらす

売笑婦を買ふことを

女郎買 姫買ひ

傾城遊び 遊女買

遊ぶ 淫売買ひ

などゝ云ふ。

廓遊び 廓通ひ

等も略々様(てへんに美)を同ふした名称であらう。

売笑婦の異称はその歴史が古いだけに、時代地方を異にするごとに、数限りなく、殊に遊廓名を頭に被せた類に至つてはとても挙げて数ふるに暇がない。行為を表白したもの、それを動物にちなんだもの千態万様である。