最近十ヶ年に於ける享楽機関の発達

紅燈絃歌の巷、それは都市がもつ唯一の魅力である。最近十ヶ年間に於ける東東府下の賃座敷、引手茶屋、及待合茶屋、芸妓屋、銘酒屋、新聞縦覧所の増減を見るに

一、貸座敷及引手荼屋

市内及郡都に於ける遊廓は新吉原、洲崎の二廓、品川、新宿、千住、板橋の四宿の外に、八王子、府中、調布等にも貸座敷があり遊廓をなして居る。

大正四年頃までは南千住にもあつたが、現在では一軒もない。以上十ヶ所(南千住を含む)に於ける大正四年より大正十三年に至る十ヶ年間の増減を見るに、逐年増加の傾向著しく、大正十二年の震災に焼失の憂き目を見たるにゝわらず、十三年に至つては、殆んど震災前と大差なきまでに復活し、其の営業を続けて居る。たゞ洲崎及品川に於ける引手茶屋のみ減少する傾向を見るが、之も貨座敷営業に改業せるもので、其の遊廓に於ける妓楼が減少したのではない。今之が累年を示せば左表の如くである。

自大正四年至大正十三年 各遊廓に於ける十ヶ年間貸座敷数(累年表)

  大正四年 同五年 同六年 同七年 同八年 同九年 同十年 同十一年 同十二年 同十三年
新吉原 一七一 二二八 二八二 二七〇 二七〇 二八五 二七五 三〇〇 一八七 二七二
洲崎 一五六 一八三 二○七 二五〇 二六二 二六五 二七七 三〇二 一○八 二六七
品川 五三 五三 五一 四五 四五 四五 四五 四五 四三 四三
新宿 五三 五五 五三 五三 五三 五〇 四六 五三 五二 五三
南千住
千住 一八 一五 一三 一一 一一 一〇 一六 四一 四三 四三
板橋 一三 一三 一五 一三 一五 一三 一三 一三 一二 一二
八王子 一四 一四 一四 一四 一四 一四 一四 一五 一四 ―四
府中
調布
四八八 五七一 六四五 六七〇 七〇六 六九六 七一六 七七八 四七二 七三四

自大正四年至大正十三年 各遊廓に於ける十ヶ年間引手荼屋敷(累年表)

  大正四年 同五年 同六年 同七年 同八年 同七年 同十年 同十一年 同十二年 同十三年
新吉原 四四 四五 四六 四七 四七 四七 四七 四七 四三
洲崎 二六 二五 二四 二四 二四 二四 二三 二三 二〇
品川 一七 一四 一三 一二
新宿
南千住
千住
板橋
八王子
府中
調布
八七 八四 八三 八三 八〇 八〇 七七 七六 一三 六七

更に過去に遡つて、東京府下の貸座敷、引手荼屋敷を窺ふも蓋し杜爾ならずと考へる、次に示す数字は明治十年以降隔十年毎に貸座敷、引手荼屋の消長を観たものである。

  貸座敷 引手茶屋
明治十年 二七四 二六七
明治十五年 四三二 二六〇
明治二十年 三七六 一九九
明治二十五年 四二四 一八一
明治三十年 四六九 一六九
明治三十五年 四六九 一六四
明治四十年 五五六 一三四
明治四十五年 四八七 九三
大正五年 五七一 八四
大正十年 七一六 七七
大正十四年 七四四 六七

此の表によれば、貸座敷の数は期に依って多少の増減はあるが、概して漸次増加するの傾向がある。殊に明治十年に比較すれば、昨大正十四年の貸座敷数は三倍余に増加してゐる。

然るに、引手茶屋は非常な減少で、明治十年に比し大正十四年は、約四分の一になってゐる。これを見ても、如何に遊廓が時代的に変化して来たかを知るべきである。即ち、娼妓は単なる性の享楽所、遊ぶなら芸妓屋といった傾きで、遊廓に於ける遊興の為、特に多大な時間と金とをかけることを避けるといふのが最近に於ける遊客の一般的五潮である。

二、待合茶及屋芸妓屋

市内及郡部に於ける待合茶屋、及芸妓屋は近年顕著に増加した。殊に、最近部部に亙って人口の増加すると共に此の種の享楽機関は、実にすさまじき勢を以て発展し、大正四年より十三年に至る十ヶ年間に、待合茶屋は、市内一千四百軒から一千九百九十七軒、即ち四割二分の増加で、之に対して都部は五十五軒から二百五十四軒、即ち四十六割一分の激増を見たのである。而て、市部の合計は実に五割四分の増加である。芸妓屋は市内一千八百八十一軒から二千七百五十一軒、此の増加率四割六分、市郡は二百五軒から六百九十一軒、即ち二十三割七分、市郡合せて二千八十六軒から三千四百四十二軒、此の増加率六割五分である。之が累年を示せば左表の通りである。

待合茶屋芸妓屋敷(累年表)

    大正4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年 11年 12年 13年 大正4年に対する増加率
待合茶屋 1400 1247 1313 1399 1465 1559 1643 1735 1338 1997 0.42
  55 70 77 85 125 159 200 204 219 254 4.61
  1453 1344 1400 1488 1790 1718 1843 1939 1557 2251 0.34
芸妓屋 1881 1953 2185 2466 2674 2867 2974 2999 1881 2751 0.46
  205 251 268 361 316 402 476 387 659 691 2.37
  2086 2184 2453 2782 3033 5269 3450 3386 2340 3442 0.63

三、銘酒店及新聞縦覧所

私娼窟の表看板と其の変遷に就ては後に述べるが今私娼窟として、かつては全盛を誇ってゐた銘酒店、及新聞縦覧所の二つについて其の増減を調べて見るに、銘酒店は、大正四年私娼撲滅以前、市内に一千四軒郡部に五十軒此の計一千〇五十四軒あったが、大正五年の私娼撲減に遭ひ、市内は翌年六百五十六軒に、翌々年は二百七十九軒に、其翌年大正七年には一軒もなくなり、郡部は当時五十軒だったが、大正五年に至って三十八軒に減少し、逐年漸減し大正九年には五軒、其の翌年に至って此五軒もなくなり現在は全く其の跡を絶った。

新聞雑誌縦覧所も亦、大正五年の私娼狩に遭遇ひ、大正四年の百八十三軒より五年百七十三軒に、六年百三十一軒、七年には四十八軒に激減し、八、九、十、十一年には三十八九軒、十二年には僅に九軒、十三年には六軒といふ、殆んど跡方もなき有様となった。而して休憩場及娯楽場は市郡共数ふるに足らず、現在市内三、郡部七なり。

自大正四年至大正十三年 十ヶ年間銘洒店及新聞雑誌小説縦覧所数(累年表)

    大正4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年 11年 12年 13年
銘酒店 1004 656 379       2      
  50 38 39 37 14 5        
  1054 694 318 37 14 5 2      
新聞雑誌小説類縦覧所 市郡計 183 173 121 48 38 39 39 39 9 6
    2 1 1 1 1 1 1      
    185 174 122 49 39 40 40 39 9 6