市内に於ける私娼の巣窟は浅草であった。十二階下から千束町へかけて御嶽町、猿之助横町、一帯の地は脂粉の香りと安香水の臭ひにつゝまれた、闇の女の化粧姿が、至る所に出没して、犬の子の様に迷ひ歩く、ぞめき男を無遠慮に、嬌笑と誘惑の腕にかけて其の腐肉の切売をして居た。其の頃の市内は何処へ行っても怪しげな小料理屋や素人屋とも、待合ともつかぬ曖昧な家があって、殆んど公然に売笑行為がなされて居た。日本橋区浜町、蠣殼町、中洲、京橋区の築地、新橋、愛宕下町、麻布区笄町の低い小路、渋谷道玄坂、坂の横町、赤坂区の溜池、芝区神明町、本郷根津八重垣町、団子坂、神田猿楽町、本所区三つ目通りの裏小路、花町、小梅業平町、深川猿江、富川町等に私娼の巣窟が散在して居た。公娼廓の吉原に近い、十二階下一帯千束町には千を以て数へる銘酒屋と新聞縦覧所とがあって、二千近い私娼が世の光の蔭に隠れて、鼠鳴きをして居た。然しながら大正五年の私娼撲滅時代に逢って之等は殆んど絶滅された。当時小唄に、
「鬼の橋爪に涙があれば暗い闇夜に花咲く」
と、あるのを見ても其の如何に峻厳を極めたるかを窺知されるであらう。然しながら、之等の存在は実に根強く、其の後に至っても取締の網をくゞつて、或は空隙に乗じて様々に姿を変て出没した。震災後十二階が跡形もなく崩厳し去ってからも、或は蜜柑、せんべい、菓子をならべた後に、化粧の女が座って嫖客を待つなど、売笑の方法は露骨さを尠くしたが、之等一切を滅絶せしむる事を得ずして、遂に待合営業を許可し、今日では私娼窟として、昔日の面影を殆んどなくした。斯くして市内の至るところに見出されて居た私娼は、次第に其の影を消して、其の形式は稍々変じ今は高等内侍、又は女給等の情意投合をなす外、特に私娼窟と見らるべきものは無くなった。而しながら大正五年の私娼撲滅時代に遭って、東京を追はれた私娼の一群は、水の飛沫の如く栃木、群馬、千葉、神奈川と云ふ風に四散して居たが、何時の間にか東京に舞ひ戻って、今は市内をさけた亀戸や玉の井新道に其の嬌態を現はし、再び十二階下に見る如き陰惨な場面を出現して来たのである。